花園近鉄ライナーズ
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  紺
愛称ライナーズ
創設年
1929年
本拠地東大阪市
グラウンド東大阪市花園ラグビー場
収容人数26544(第1グラウンド)
1300(第2グラウンド)
代表者中川善雄(部長)
監督向井昭吾(HC)
所属リーグJAPAN RUGBY LEAGUE ONE D1

ファーストカラーセカンドカラー

公式サイト
https://hanazono-liners.jp/
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花園近鉄ライナーズ(はなぞのきんてつライナーズ、: Hanazono Kintetsu Liners)は、大阪府東大阪市をホストエリアとしてJAPAN RUGBY LEAGUE ONEに所属しているラグビーチームである。
概要

日本屈指の歴史と実績を有する、社会人ラグビーの名門チームである。ホームグラウンドは東大阪市花園ラグビー場(かつての近鉄花園ラグビー場)。愛称の「ライナーズ」は近畿日本鉄道が運行する近鉄特急アーバンライナー」に由来し、ラグビーでのスピード感と力強さを表現している。チームマスコットは近鉄特急アーバンライナーnext』をモチーフとした「トライナー君」が務めていたが、「花園近鉄ライナーズ」への改称を機にロゴ・エンブレムを一新するとともに、チームマスコットも近鉄特急『ひのとり』をモチーフにした「ライナマン(LINER MAN)」に交代した[1]
歴史
黎明期

1927年大阪電気軌道(通称大軌)社員の有志が集まり高安工場敷地でラグビーの練習を行った(この時、後の近鉄グループ総帥と呼ばれる佐伯勇も参加している)。この練習がきっかけで本格的にメンバーを募集しチームが出来た。その後、花園ラグビー場が開設された1929年に大阪電気軌道ラグビー部として正式に創設された。

戦前・戦中は組織だった全国大会は無かったが、1936年(昭和11年)3月の大阪実業団大会優勝を始め、同大会準優勝3回を誇る。しかし戦争が深まるにつけ次々に部員が召集され、あまり試合も練習も出来なくなっていった。またホームグラウンドである花園ラグビー場も農場や軍事教練場となってしまった。なお1941年(昭和16年)3月15日には大軌と同社の傘下会社・参宮急行電鉄が合併し関西急行鉄道(関急)となり、さらに1944年(昭和19年)6月1日関急と南海鉄道が合併し近畿日本鉄道(近鉄)が発足した。
黄金期

1947年(昭和22年)第2回国民体育大会関西予選で優勝し、金沢で行われた第2回国民体育大会に出場する。当時ステータスの高かった国体に出場できたことは大変な栄誉であった。またこの終戦間もない時代の遠征には物資難・食糧難・資金難など幾多の困難があったが、OBや社員の協力で参加することができた。

1948年度の第1回全国社会人ラグビーフットボール大会(各地域リーグの上位チームによるトーナメント、以下 全国社会人大会)に出場。しかし決勝で九州代表の配炭公団に 3-57 と大敗し準優勝に終わる。その後も八幡製鉄等の台頭により、優勝を争える力がありながら、なかなか頂点には届かなかった。加えて1952年度については、全国社会人大会の出場も逃した。巻き返しを図るため、近鉄の選手として初めて日本代表選手となった中島義信が同年度限りで現役を引退すると、翌シーズンより監督に就任することになった。

その甲斐もあり、1953年度に九州電力と両チーム優勝の形で初優勝。宿敵・八幡製鉄が九州電力に地区予選で敗れ出場を逃したという事情があったとはいえ、悲願の「日本一」を達成した。以後、中島が監督時代に、近鉄は同大会で5回の優勝を果たすことになる。

また、1956年に九州電力を決勝で破って、第1回大会以来続いていた九州勢の連続優勝を途絶えさせた。以後、第27回大会までに、優勝8回、準優勝9回に輝いている。特に、八幡製鉄とは全国社会人大会で1951年度から1968年度まで実に12回対戦。うち決勝戦では8回顔を合わせ、社会人チームの二強の一角としても長らく君臨した。戦績は近鉄の2勝10敗(決勝では1勝7敗)と大変分が悪く、加えて1958年度は決勝で、1968年度は準決勝で、それぞれ八幡に敗れて同大会3連覇を阻止された。

1956年度の第9回大会では1回戦から決勝までの全4試合すべてを無失点で優勝し「完全シャットアウト優勝」と言われた。この記録は以後一度も並ばれることは無かった。また同大会では、全55回のうち53回出場および50年連続出場という偉業を成し遂げたことも有名である。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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