花園天皇
国宝 紙本著色花園天皇像
豪信
花園天皇(はなぞのてんのう、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:花󠄁園天皇、1297年8月14日〈永仁5年7月25日〉- 1348年12月2日〈貞和4年11月11日〉)は、日本の第95代天皇(在位:1308年9月11日〈延慶元年8月26日〉- 1318年3月29日〈文保2年2月26日〉)。諱は富仁(とみひと)。
伏見天皇の第四皇子。母は、左大臣洞院実雄の女、洞院季子(顕親門院)。 延慶元年(1308年)8月25日、大覚寺統の先帝後二条天皇が急死したために翌26日に12歳で践祚、11月16日に即位。在位の前半は父の伏見上皇が、後半は兄の後伏見上皇が院政を布いた。文保2年(1318年)2月、大覚寺統の尊治親王(後醍醐天皇)に譲位。.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキソースに誡太子書
略歴
譲位後は、皇太子となった甥の量仁親王(光厳天皇)の養育にあたったが、その一環として、元徳2年(1330年)2月、親王を訓戒するために記した『誡太子書』(宮内庁書陵部蔵)は、やがて訪れるであろう動乱の時代に備えて勉学の必要性があることを説いた書として名高い。
南北朝時代 においては北朝側に付き、光厳上皇率いる北朝を支えた。光厳上皇親撰の風雅和歌集では、真名・仮名の両序文を執筆している。
禅宗の信仰に傾倒し、建武2年(1335年)11月、円観について出家、法名を遍行と称した。宗峰妙超と関山慧玄を師とし、暦応5年(1342年)1月には仁和寺の花園御所を寺に改めて妙心寺を開基している。
光厳院政の絶頂期であった貞和4年(1348年)11月、花園萩原殿で崩御。宝算52。
崩御の一報を聞いた光厳上皇はすぐさま萩原殿に駆けつけ、その後特例で5ヶ月間の心喪に服し、その死を深く悼んだという[1]。 歌道・学問・書道に優れ、特に和歌では京極派の主要人物の一人で『風雅和歌集』の監修を行っている。日記『花園天皇宸記』は宸筆の原本が今日に残る(宮内庁書陵部蔵)。信心深く読経や念仏を欠かさなかった。 『誡太子書』と同時期に量仁親王のために著したとみられる『学道之御記』(宮内庁書陵部蔵)では、その冒頭部で「学問の目的はただ文字を識り、博学になるためのものではなく、本性に達し、道義をおさめ、礼義を知り、状況の変化をわきまえ、過去を知り未来に活用するためのものである」という意味の一文を掲げているが、そこからも天皇の持っていた学問に対する考え方がよく見て取れる。
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