花園万頭
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株式会社花園万頭花園万頭 新宿本店
種類株式会社
本社所在地 日本
160-0022
東京都新宿区新宿5丁目17-2
YMビル
設立2018年6月20日[1]
業種食料品
法人番号4010001192798
事業内容和菓子製造販売
代表者代表取締役社長 齋藤充
資本金4,800万円[2]
主要株主株式会社パティスリー銀座千疋屋 (100%)
外部リンク ⇒http://www.tokyo-hanaman.co.jp/
特記事項:創業は1834年
旧:株式会社花園万頭は1953年1月13日設立。
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花園万頭(はなぞのまんじゅう)は、薯蕷饅頭のひとつで、東京新宿銘菓として知られる。発売以来変わらず「日本一高い、日本一うまい」をキャッチコピーとしている[3]

株式会社花園万頭は、「花園万頭」や「ぬれ甘なっと」などの和菓子を製造販売する和菓子店で、東京都新宿区新宿5丁目に本社を置く。現在は千疋屋の子会社である株式会社パティスリー銀座千疋屋の100%子会社となっている。

本項では2018年6月29日まで事業を行っていた旧社と、同年6月30日より事業を開始した新社をまとめて記述する。
花園万頭花園万頭花園万頭花園万頭の焼印

看板商品である「花園万頭」は、細長い型の薯蕷饅頭(蒸し饅頭)である。商品名と社名は「花園万頭」であり「花園饅頭」ではない。本社近くの花園神社にあやかったもので、同神社に商品を奉納している[4]

和菓子職人が手作りしている。千葉県佐倉産のとろろ芋に上新粉と上白粉を加えた生地で、北海道十勝小豆ざらめ四国和三盆糖で甘味を付けたを包んでいる[3]

生菓子であることから日持ちが3日間と短いため、数量限定販売となっており、早く完売する場合もある旨の注意がされている。新社への事業譲渡後は、毎週火曜日は販売を行わない。
沿革
旧:株式会社花園万頭
創業

天保5年(1834年)に金沢で創業した「石川屋本舗」に始まる老舗の和菓子店である[3]

明治39年(1906年)、3代目の石川弥一郎が東京進出を企み「石川屋」ののれんを売却して上京[5]日露戦争後の1906年に別の屋号で、初めに青山、後に赤坂中ノ町に店を構えた。赤坂にある乃木希典を祀った乃木神社にあやかり、和菓子「乃木の月」を発売して人気を博す[5]

昭和4年(1929年)、火事で店舗と工場を焼失。翌昭和5年(1930年)、加賀前田藩の御用地であった新宿三光町(現:新宿5丁目)に移転した[3]。弥一郎は「万頭と共に寝て、万頭と共に起きよ」の心得で新製品の饅頭を開発し、近くの花園神社にあやかり「花園万頭」と名付けて発売、屋号も花園万頭本舗に改めた[3]。当時の一般的な饅頭のおよそ2倍にあたる2銭の値を付け「日本一高い、日本一うまい」と謳ったこの饅頭は大当たりした。特徴的な俵型は女性が上品に食べられるよう小ぶりにしたもので[5]、プレミア感も受けてヒット商品となった[5]

太平洋戦争により休業を余儀なくされ、さらに東京大空襲で店舗や工場を再度消失したため、一家は金沢へ疎開。昭和23年(1948年)に新宿へ戻り営業を再開、翌昭和24年(1949年)に北海道産の大納言小豆グラニュー糖で煮詰めたもの「濡れ甘なつと」を発売[5]、「花園万頭」と並ぶ看板商品となる[5]

昭和28年(1953年1月13日法人へ改組し株式会社花園万頭を設立した[6]
凋落

旧社は石川家による同族経営ではあったが、一子相伝として同世代は1人しか入社させない原則としていた。しかし5代目社長であった石川利夫は、6代目社長となる長男の利一の他にも、次男・三男までも花園万頭に入社させたばかりか、次男や三男の親族まで会社役員にさせ株を持たせていたため、コーポレート・ガバナンスが不安定に陥っていた[7]

6代目社長であった石川利一の長男で、後に7代目にして石川家最後の社長となる石川一弥が平成3年(1991年)に入社する[7]

ピーク時の平成6年(1994年)6月期には約42億円の売上を記録した[5][8]。しかし1980年代から1990年代にかけて売上高は横ばいであったが、有利子負債は18億円から50億円に倍増していた[7]

高額所得法人として公示にたびたび登場し、バブル末期1992年には1億7,048万円を所得として申告[9]。同年には老朽化した小平工場の増改築を予定し隣接地を購入したが、バブル崩壊地価が暴落[4]。結局は小平工場の土地を売却し茨城県土浦工場へ移転することになるが[7][4]、こうした設備投資や不動産投資の失敗により借入金が膨れ上がっていった[4]

2005年には、父の利一の跡を継いで一弥が社長に就任[7]。その後は経営方針をめぐり親子の対立が生じるようになる[7]

花園万頭の商品は東京銘菓としてのブランドを守るため、利一の代までは長年首都圏百貨店のみで販売していた[7]。しかしバブル崩壊により百貨店が経営不振となる[7]セゾングループ解体やそごう破綻もこの頃である)。これに危機感を覚えた一弥は父の反対を押し切り、債務返済のための打開策として、首都圏外の百貨店への進出を決断した[7]

しかし平成21年(2009年)6月期には約7億6000万円の赤字を計上[5]。このため不採算店舗の閉鎖を実施した。

2011年には東日本大震災による特別損失の計上により資金繰りが悪化[5]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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