芬皇寺
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芬皇寺
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芬皇寺模?石塔
.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}大韓民国における位置
基本情報
所在地慶州市九黄洞312(芬皇路94-11)
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度50分26秒 東経129度14分01秒 / 北緯35.84056度 東経129.23361度 / 35.84056; 129.23361座標: 北緯35度50分26秒 東経129度14分01秒 / 北緯35.84056度 東経129.23361度 / 35.84056; 129.23361
宗教仏教
慶州市
慶尚北道
韓国
文化財指定慶州芬皇寺模?石塔
大韓民国指定国宝
芬皇寺和諍国師碑趺(朝鮮語版)
慶尚北道有形文化財
芬皇寺石井(朝鮮語版)
慶尚北道文化財資料
慶州芬皇寺金銅薬師如来立像
大韓民国指定宝物
慶州芬皇寺幢竿支柱
(大韓民国指定宝物)
慶州芬皇寺址
大韓民国指定史跡
管理者慶州市
完成善徳王3年(仁平元年、634年)
建築物
最長部(最高)9.3m(模?石塔
資材安山岩(模?石塔)・花崗岩ほか
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芬皇寺(ふんこうじ、ハングル: ???〈プナンサ[1][注 1]〉、Bunhwangsa〈Punhwang-sa[9]〉)は、韓国慶尚北道慶州市九黄洞(ハングル: ???)にある寺院である[1]。2000年11月、国際連合教育科学文化機関(ユネスコ、UNESCO)の世界遺産文化遺産)に慶州歴史地域(慶州歴史遺跡地区、ハングル: ????????)として登録された皇龍寺(朝鮮語版)地区に位置する[10][11]。2019年2月26日、大韓民国指定史跡第548号に慶州芬皇寺址(ハングル: ?? ????)として指定された[12]
歴史

新羅第27代善徳(ソンドク[13]、在位632-647年)の治世3年(634年)に創建された仏教寺院であり[14]、『三国史記』によれば、善徳王3年春正月[15]、元号を仁平に改め、(同月)芬皇寺が完成したとされる[16]。善徳王は、新羅初の女王であり、仏僧の留学や寺院の建立を奨励するなど仏教を積極的に推進したことでも知られる[17]

中国の『続高僧伝』には「王芬寺」とあり、寺はすなわち王の造りし所なりと記される[15]。それによると、貞観17年(643年)に高僧の慈蔵(チャジャン[1]、590-658年)がより帰国した際、王の命により「王芬寺」に住まわせたとあり[18]、『三国遺事』にも同様に、国を挙げて迎え、命じて「芬皇寺」に住まわすと記される[15][19]。また、元暁(ウォニョ[1]、617-686年)も芬皇寺に住房して『華厳経』の(そ)[20]のほか『金光明経』の疏の編纂などに尽くしたとされ[1]、死後、子の薛聡(ソルチョン)が元暁の遺骸を砕いて造形した塑像を芬皇寺に安置し[21]、恭敬したといわれることから[1][22]、芬皇寺は元暁宗[23][注 2]の根本道場とされた[21][24]

芬皇寺の千手大悲観音図像の霊験伝承も『三国遺事』に記された「芬皇寺千手大悲盲児得眼」より知られる[26]。新羅第35代景徳(キョンドク[27]、在位742-765年)の時代、5歳で急に盲目となった児子を抱いた母親の希明(フィミョン)が芬皇寺の左殿北側の壁にあった千手大悲を詣で、教えたとおりに子が歌い祈ると目が治癒したとされ[28][29]、その霊験譚が「?千手大悲歌」などとして伝わる[30][31]。また、『三国史記』にある画人率居(朝鮮語版)(ソルゴ)の観音菩薩図像があったとされ、千手大悲観音と同一視される[32]。さらに『三国史記』には、景徳王14年(755年)に芬皇寺の薬師如来として重さ30万6700の銅像が鋳造されたことも記される[33][34]。しかし、これらの遺物は、13世紀のモンゴルの侵攻、1592年の壬辰倭乱文禄の役)を受けて消失している[7][33]芬皇寺模?石塔(1906年)

半ば崩壊していた中央の模?石塔(朝鮮語版)(もせんせきとう、ハングル: ????〈モジョンソクタプ[1]〉)は、1915年、朝鮮総督府により修築され、3層の石塔として現在に残る[35]。その石塔の修復・調査の際、第2層と第3層の間より舎利函(しゃりかん、ハングル: ???〈サリハム〉)が発見されている。そして石函内より創建当時の遺物のほか高麗(918-1392年)以降の銅銭も確認されたことから、高麗時代以降、石塔を改築して再び納めたと考えられる[36][37]。発見された石函と遺物は、国立慶州博物館に収蔵[35]・展示される[36]
構成

今日にある芬皇寺の寺域はかなり小さいが、南の皇龍寺(朝鮮語版)跡との間に、芬皇寺の幢竿支柱(朝鮮語版)(どうかんしちゅう、ハングル: ????〈タアンカオンシジュ[33]〉)があることから、かつてはそこまで芬皇寺の寺域であったと見られる[38]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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