芦部信喜
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全名芦部 信喜(あしべ のぶよし)
生誕 (1923-09-17) 1923年9月17日
日本長野県上伊那郡赤穂村(現・駒ヶ根市
死没 (1999-06-12) 1999年6月12日(75歳没)
日本東京都東京大学医学部附属病院
学問
時代20世紀
活動地域 日本
学派八月革命説
研究分野法学
憲法学
研究機関東京大学
学習院大学
放送大学
特筆すべき概念自由の基礎法
主要な作品『憲法』(岩波書店)
その他多数
影響を受けた人物宮沢俊義
影響を与えた人物高橋和之戸波江二戸松秀典野坂泰司長谷部恭男青柳幸一日比野勤渋谷秀樹浦部法穂
学会日本公法学会理事長
全国憲法研究会代表
国際人権法学会理事長
主な受賞歴文化功労者
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芦部 信喜(あしべ のぶよし、1923年大正12年〉9月17日 - 1999年平成11年〉6月12日)は、日本法学者。専門は憲法学学位法学博士東京大学1962年)。憲法学の権威とされる。宮澤俊義門下。弟子に横田耕一高橋和之戸松秀典戸波江二青柳幸一野坂泰司日比野勤長谷部恭男など。

1990年日本学士院会員1993年文化功労者1986年から1992年まで日本公法学会理事長。護憲派憲法学者団体の全国憲法研究会代表、国際人権法学会理事長等も歴任。著書『憲法』(岩波書店)は代表的な著作であり、累計100万部を超えるロングセラーとなっている。称号東京大学名誉教授。軍在籍時の階級陸軍少尉

「自由の基礎法」として近代憲法を位置付け、日本国憲法における統治機構の原理及び人権保障のありかたを理論的に考察した。
人物・来歴

長野県上伊那郡赤穂村(現駒ヶ根市)生まれ。父は駒ヶ根初代市長、赤穂信用金庫(現アルプス中央信用金庫)理事長、駒ヶ根商工会議所会頭などを務めた芦部啓太郎

赤穂尋常高等小学校(現長野県駒ヶ根市立赤穂小学校)、旧制伊那中学校(現長野県伊那北高等学校)、旧制松本高等学校文科甲類(現信州大学文理学部)を経て、学年短縮措置で半年早い1943年10月に東京帝国大学法学部政治学科入学。旧日本軍二等兵・少尉等を経て、1946年復学、1949年東京大学法学部政治学科卒。

1949年東京大学法学部助手(宮沢俊義の下で憲法学を専攻)、1952年同助教授。1962年「憲法制定権力の研究」により法学博士(東京大学)の学位を取得[1]ハーヴァード・ロー・スクール留学を経て、1963年東京大学法学部教授、1980年同学部長、1984年同名誉教授(定年退官)、1984年学習院大学法学部教授、1994年放送大学教授等を歴任。

この間、1994年から1996年まで朝日新聞社紙面審議会会長を務めた他、九州大学名古屋大学京都大学北海道大学の大学院等でも教鞭をとる。法制審議会委員、宗教法人審議会会長、電波監理審議会会長等も歴任。中曽根政権下の靖国懇のメンバー。総理大臣の靖国神社参拝は合憲とする靖国懇の多数意見に対し、違憲とする少数意見を書いた。自衛隊について戦力の観点から、違憲との認識を示した。

1999年、東京大学病院において肝不全のため死去。75歳没。葬儀委員長は長谷部恭男が務めた。
学説

芦部は、戦前通説的見解とされた師である宮沢の学説を承継した上で、アメリカ合衆国の憲法学説・判例を他に先駆けて導入し、戦後の憲法学界における議論をリードし、その発展に寄与した。

芦部は、まず、憲法が歴史の所産であるとした上で、市民革命を経て発展してきた近代憲法は、何より「自由の基礎法」である点に特質があり、「個人の尊重原理」とそれに基づく体系を根本規範とする価値秩序であるとする。かかる立場からは、憲法は、国法秩序において最も強い形式的効力を有する「最高法規」でもあり、国家権力を制限する「制限規範」でもあることになるが[2]、近代憲法を支えた古典的な立憲主義の思想は、現代においては、社会国家・福祉国家の思想と両立し、民主主義とも密接に結合するなど変容しているとする[3]。その上で、日本国憲法の制定の過程には、歴史上様々政治的な要因が働いていることは否定できないが、結局のところ、国民自ら憲法制定権力を発動させて制定したものであるとみるほかないとして宮沢の八月革命説を支持し[4]、その結果、上掲の特質を全て備えた日本国憲法が制定されたとみる。

次に、人権も憲法と同様に歴史の所産であるとした上で、上掲の日本国憲法の制定過程や人権宣言の歴史に鑑みれば、日本国憲法は、明治憲法下の外形的人権宣言と異なり、自由権のみならず、社会権もともに「人間の尊厳性の原理」に基づき、固有性・不可侵性・普遍性を有する自然権として保障しているとする[5]。人権を「公共の福祉」に反しない限り保障していることの意味については、自由国家的公共の福祉と社会国家的公共の福祉の二つの側面があるとの内在的制約説をとり、宮沢説を基本的には承継しつつも、宮沢がその内容は多くの判例の積み重なりを待つしかないとしていたことに対しては、具体的な権利の制約範囲を確定できないと批判した上で、基本的人権の制約範囲を決定する違憲審査基準としてアメリカにおけるカロリーヌ判決において提唱された経済的自由に比して精神的自由の優位性を認める二重の基準論を採用することを主張した[6]。その上で、二重の基準論の根拠として、代表民主制という統治システムをとる制度の下では精神的自由が保障されていれば民主政の過程において議会で是正できることを重視して、統治機構と人権を理論的に架橋する道を開き、具体的な訴訟の中で人権保障のあり方を考える憲法訴訟論を展開した。


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