凡例芦田信守
時代戦国時代 - 安土桃山時代
生誕不明
死没天正3年6月19日(1575年7月26日)
別名四郎左衛門(通称)、依田幸成
官位下野守または備前守
主君大井貞隆、諏訪頼重、大井貞隆、武田信玄、勝頼
氏族芦田氏
父母芦田信常
芦田 信守(あしだ のぶもり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。信濃国芦田城主。 芦田氏は信濃の土豪・依田氏の一族であり、元々は独立した国人領主であったが、室町時代においては、在府と在地に分かれ、在府は評定衆、奉行衆、奉公衆を建武年間から文明年間まで任命され、在地においては守護代・大井氏に臣従していた。 信守の事績に関しては『依田記 天文10年(1541年)、武田信虎は諏訪頼重と共に小県郡に侵入。諏訪頼重は帰路に芦田城に侵攻し、10歳に満たない幼少の信守を生け捕りにし、主従関係を誓わせる(諏訪上社御頭之日記)。しかし翌天文11年(1542年)、諏訪頼重が武田晴信に自害させられ、以後は甲斐武田氏に仕え、信濃先方衆として活躍した。 武田氏配下においては騎馬150騎持ちで知行も10000貫文であったらしく、かなりの大身であったという[1]。永禄4年(1561年)の第四次川中島の戦いでは妻女山攻撃に参加して奮戦した。同7年(1564年)には前山伴野氏の伴野信直
略歴
出自
事績
信玄の死後は武田勝頼に仕えて遠江国二俣城に入城する。天正3年(1575年)、長篠の戦いで勝利した徳川家康に二俣城を包囲される中、城中で死去した。
脚注^ a b 丸島和洋「蘆田信守」『武田氏家臣団人名辞典』東京堂出版、2015年。
^ 本多隆成『徳川家康と武田氏 信玄・勝頼との十四年戦争』吉川弘文館、2019年、125-130頁。
出典
田中豊茂「信濃中世武家伝」信濃毎日新聞社 2016年
市川武治「もう一人の真田ー依田右衛門左信蕃」櫟 1993年
柴辻俊六、平山優、黒田基樹、丸島和洋『武田氏家臣団人名辞典』東京堂出版、2015年
本多隆成『徳川家康と武田氏 信玄・勝頼との十四年戦争』吉川弘文館、2019年