芥川龍之介
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芥川 龍之介
(あくたがわ りゅうのすけ)

誕生1892年3月1日
日本東京府東京市京橋区
(現:東京都中央区
死没 (1927-07-24) 1927年7月24日(35歳没)
日本・東京府(現:東京都北区田端)
墓地日蓮宗慈眼寺
職業小説家
言語日本語
国籍 日本
教育文学士
最終学歴東京帝国大学英文科
ジャンル短編小説
主題近代知識人の苦悩
文学活動新現実主義
代表作『羅生門』(1915年)
』(1916年)
戯作三昧』(1917年)
地獄変』(1918年)
奉教人の死』(1918年)
杜子春』(1920年)
藪の中』(1922年)
河童』(1927年)
歯車』(1927年)
配偶者塚本文1919年 - 1927年
子供芥川比呂志(長男)
芥川多加志(次男)
芥川也寸志(三男)
親族塚本善五郎(義父)
芥川貴之志(孫)
芥川麻実子(孫)
公式サイト田端文士村記念館
ウィキポータル 文学
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芥川 龍之介(あくたがわ りゅうのすけ、1892年明治25年〉3月1日 - 1927年昭和2年〉7月24日)は、日本小説家。号は澄江堂主人(ちょうこうどうしゅじん)、俳号は我鬼(がき)。東京出身。『羅生門』、『』、『地獄変』、『歯車』などで知られる。
生涯

東京市京橋区入船町8丁目(現・東京都中央区明石町)に牛乳製造販売業を営む新原敏三、フクの長男として生まれる[1]出生時刻については資料がないため不明である。 戸籍上の正しい名前は「龍之介」であるが、養家である芥川家や府立三中一高東京大学関係の名簿類では「龍之助」になっている。芥川自身は「龍之助」の表記を嫌った。姉が2人いたが、長姉は、龍之介が生まれる1年前に6歳で病死している。

生後7か月ごろに母フクが精神に異常をきたしたため[* 1]、東京市本所区小泉町(現・東京都墨田区両国)にある母の実家の芥川家に預けられ、伯母のフキに養育される。11歳のときに母が亡くなる。翌年に伯父・芥川道章(フクの実兄)の養子となり、芥川姓を名乗ることになった。旧家士族である芥川家は江戸時代、代々徳川家に仕えた奥坊主(御用部屋坊主)の家である。家中が芸術・演芸を愛好し、江戸の文人的趣味が残っていた。

1898年(明治31年)、江東(こうとう)尋常小学校入学(芥川卒業後、「江東」は「えひがし」と読むようになる。現在の墨田区立両国小学校)。東京府立第三中学校を卒業の際に「多年成績優等者」の賞状を受け、1910年(明治43年)9月、第一高等学校第一部乙類英文科に入学[* 2]。1910年(明治43年)に中学の成績優秀者は無試験入学が許可される制度が施行され、芥川はその選に入っていた。同期入学に久米正雄[* 2]松岡讓[* 2]佐野文夫[* 2]菊池寛[* 2]、井川恭(のちの恒藤恭[* 2]土屋文明[* 2]倉田百三(第一部丙類独法・政治・独文科一年四之組)、渋沢秀雄(第一部丙類仏法・政治・仏文科一年五之組)、矢内原忠雄(第一部甲類英法・政治・経済・商科一年二之組)らがいた。2年生になり一高の全寮主義のため寄宿寮に入るが、芥川は順応することはなかったという。寮で同室となった井川は生涯の親友となる。井川は『第一高等学校一覧』(第一高等学校刊行)によると[2]、1年から3年まで常に芥川の成績を上回っている[* 3]1913年(大正2年)、東京帝国大学文科大学英文学科へ進学。ちなみに当時、同学科は一学年数人のみしか合格者を出さない難関であった。

東京帝大在学中の1914年(大正3年)2月、一高同期(クラスメイト)の菊池寛、久米正雄らとともに同人誌新思潮』(第3次)を刊行。まず「柳川隆之助」(隆之介と書かれている当時の書籍も存在する)の筆名でアナトール・フランスの『バルタザアル』、イエーツの『春の心臓』の和訳を寄稿したあと、10月に『新思潮』が廃刊にいたるまでに同誌上に処女小説『老年』を発表。作家活動の始まりとなった。このころ、青山女学院英文科卒の吉田弥生[* 4]という女性と親しくなり、結婚を考えるが、芥川家の猛反対で断念する。1915年(大正4年)10月、代表作の1つとなる『羅生門』を「芥川龍之介」名で『帝国文学』に発表。東京帝国大学を卒業する1916年(大正5年)頃の第4次『新思潮』のメンバー。右から2番目が芥川龍之介、一番右は成瀬正一、一番左から久米正雄、松岡譲。

1916年(大正5年)には第4次『新思潮』(メンバーは菊池、久米のほか松岡譲、成瀬正一ら5人)を発刊したが、その創刊号に掲載した『鼻』が漱石に絶賛される。この年に東京帝国大学文科大学英文学科を20人中2番の成績で卒業[* 5]。卒論は「ウィリアム・モリス研究」。同年12月、海軍機関学校英語教官を長く勤めた浅野和三郎新宗教大本(当時は皇道大本)」に入信するため辞職する[3]。そこで畔柳芥舟市河三喜ら英文学者が、浅野の後任に芥川を推薦(内田百によれば夏目漱石の口添えがあったとも)、芥川は海軍機関学校の嘱託教官(担当は英語)として教鞭を執った[4][* 6]。そのかたわら創作に励み、翌年5月には初の短編集『羅生門』を刊行する。その後も短編作品を次々に発表し、11月には早くも第二短編集『煙草と悪魔』を発刊している。なお、海軍機関学校の初任給が60円であったのに対し、当時の原稿料は1枚30銭から2円であった[5]1919年(大正8年)長崎滞在中の写真。左から2番目が芥川龍之介、一番左は菊池寛

1918年(大正7年)の秋、懇意にしていた小島政二郎(『三田文学』同人)と澤木四方吉(『三田文学』主幹で西洋美術史家)の斡旋で慶應義塾大学文学部への就職の話があり、履歴書まで出したが、実現をみなかった[6]


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