芥川龍之介賞
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芥川龍之介賞
受賞対象各新聞・雑誌(同人雑誌を含む)に発表された純文学短編の無名もしくは新進作家
会場東京會舘帝国ホテル
日本
主催日本文学振興会(事実上文藝春秋社との共催)
初回1935年上半期
最新回2023年下半期
最新受賞者九段理江
公式サイト公式サイト

芥川龍之介賞(あくたがわりゅうのすけしょう)、通称芥川賞(あくたがわしょう)は、芸術性を踏まえた一篇の短編あるいは中編作品に与えられる文学賞である。文藝春秋社内の日本文学振興会によって選考が行われ、賞が授与される。掌編小説には授与されたことがない。
概要

大正時代を代表する小説家の一人・芥川龍之介の業績を記念して、友人であった菊池寛1935年直木三十五賞(直木賞)とともに創設し以降年2回発表される。第二次世界大戦中の1945年から一時中断したが1949年に復活した。新人作家による発表済みの短編・中編作品が対象となり、選考委員の合議によって受賞作が決定される。受賞者には、正賞として懐中時計、副賞として100万円が授与され、受賞作は『文藝春秋』に掲載される[1]

現在の選考委員は、小川洋子奥泉光川上弘美島田雅彦平野啓一郎堀江敏幸松浦寿輝山田詠美吉田修一の9名(2020年上半期から)。選考会は、料亭新喜楽』の1階で行われる(直木賞選考会は2階)。受賞者の記者会見と、その翌月の授賞式は、長く東京會舘で行われていたが、同館の建て替えに伴い、現在は帝国ホテルで行われている。
成立

1934年菊池寛は『文藝春秋』4月号(直木三十五追悼号)に掲載された連載コラム「話の屑籠」にてこの年の2月に死去した直木三十五1927年に死去した芥川龍之介の名を冠した新人賞の構想を「まだ定まってはいない」としつつ明らかにした。1924年に菊池が『文藝春秋』を創刊して以来、芥川は毎号巻頭に「侏儒の言葉」を掲載し直木もまた文壇ゴシップを寄せるなどして『文藝春秋』の発展に大きく寄与しており両賞の設立は菊池のこれらの友人に対する思いに端を発している。また『文学界』の編集者であった川崎竹一の回想によれば、1934年に文藝春秋社が発行していた『文藝通信』において川崎がゴンクール賞ノーベル賞など海外の文学賞を紹介したついでに日本でも権威のある文学賞を設立するべきだと書いた文章を菊池が読んだことも動機となっている[2]。このとき菊池は川崎に文藝春秋社内ですぐに準備委員会および選考委員会を作るよう要請し、川崎や永井龍男らによって準備が進められた。同年中、『文藝春秋』1935年1月号において「芥川・直木賞宣言」が発表され正式に両賞が設立された。設立当時から正賞(賞牌)として記念時計が贈られるとされており、副賞は500円であった[3]。芥川賞選考委員は芥川と親交があり、また文藝春秋とも関わりの深い作家として川端康成佐藤春夫山本有三瀧井孝作ら11名があたることになった。

芥川賞・直木賞は今でこそジャーナリズムに大きく取り上げられる賞となっているが設立当初は菊池が考えたほどには耳目を集めず、1935年の「話の屑籠」で菊池は「新聞などは、もっと大きく扱ってくれてもいいと思う」と不平をこぼしている[4]1954年に受賞した吉行淳之介は、自身の受賞当時の芥川賞について「社会的話題にはならず、受賞者がにわかに忙しくなることはなかった」と述べており[5]1955年に受賞した遠藤周作も、当時は「ショウではなくてほんとに賞だった」と話題性の低さを言い表している[6]。遠藤によれば、授賞式も新聞関係と文藝春秋社内の人間が10人ほど集まるだけのごく小規模なものだったという。転機となったのは1956年石原慎太郎太陽の季節」の受賞である[注釈 1]。作品のセンセーショナルな内容や学生作家であったことなどから大きな話題を呼び、受賞作がベストセラーとなっただけでなく「太陽族」という新語が生まれ石原の髪型を真似た「慎太郎カット」が流行するなど「慎太郎ブーム」と呼ばれる社会現象を巻き起こした[5]。これ以降芥川賞・直木賞はジャーナリズムに大きく取り上げられる賞となり1957年下半期に開高健1958年上半期に大江健三郎が受賞した頃には新聞社だけでなくテレビ、ラジオ局からも取材が押し寄せ、また新作の掲載権をめぐって雑誌社が争うほどになっていた[7]。今日においても話題性の高さは変わらず特に受賞者が学生作家であるような場合にはジャーナリズムに大きく取り上げられ、受賞作はしばしばベストセラー[8]となっている。
選考過程

上半期には前年の12月からその年の5月、下半期には6月から11月の間に発表された作品を対象とする。候補作の絞込みは日本文学振興会から委託される形で、文藝春秋社員20名で構成される選考スタッフによって行なわれる。選考スタッフは5人ずつ4つの班に別れ各班に10日に1回ほどのペースで毎回3、4作ずつ作品が割り当てられる。スタッフは作品を読み、班会議でその班が推薦する作品を選ぶ。それから各班の推薦作品が持ち寄られて本会議を行いさらに作品を絞り込む。この班会議→本会議が6?7回ずつ計12?14回繰り返され、最終的に候補作5、6作を決定する。班会議、本会議ともにメンバーは各作品に○、△、×による採点をあらかじめ行い会議に臨む。

最終候補作が決定した時点で候補者に受賞の意志があるか確認を行い、最終候補作を発表する。選考会は上半期は7月中旬、下半期は1月中旬に築地の料亭・新喜楽1階の座敷で行なわれる。選考会の司会は『文藝春秋』編集長が務める。選考委員はやはりあらかじめ候補作を○、△、×[9]による採点で評価しておき、各委員が評価を披露した上で審議が行なわれる[注釈 2]
選考基準
「新人」の基準

芥川賞は対象となる作家を「無名あるいは新人作家」としており、特に初期には「その作家が新人と言えるかどうか」が選考委員の間でしばしば議論となった。戦中から戦後にかけて芥川賞が4年間中断していた時期に野間宏中村真一郎椎名麟三梅崎春生武田泰淳三島由紀夫ら「戦後派」と呼ばれる作家たちが登場して注目を浴びたが1949年の芥川賞復活後、彼らは新人ではないと見なされて候補に挙がることさえなかった。また島木健作田宮虎彦金達寿、後述する井上光晴のように候補に挙がっても「無名とはいえない」という理由で選考からはずされることもしばしばあった。第23回(1950年上半期)に田宮が候補となったとき、坂口安吾は「芥川賞復活の時に、三島君まではすでに既成作家と認めて授賞しない、というのが既定の方針であったが、田宮君が授賞するとなると、三島君はむろんのこと、梅崎君でも武田君でも(中略)かく云う私も、候補に入れてもらわなければならない」と述べて反対している。他方、第5回(1937年上半期)に受賞した尾崎一雄は受賞時すでに新人とは言えないキャリアを持っていたが、「一般的には埋もれている」(瀧井孝作)と見なされて受賞に至っている[10]。第38回(1957年下半期)に開高健と競って僅差で落選した大江健三郎はその後の半年間にも次々と話題作を発表し、続く第39回(1958年上半期)でも候補となったが作品のレベルでは群を抜いていたにもかかわらず新人といえるかどうかが議論の的となった[11]。現在では、芥川賞は原稿用紙300枚以内の小説という括り以外では、説明のできない賞になってきている。
作品の長さ

芥川賞は短編・中編作品を対象としており長さに明確な規定があるわけではないが、概ね原稿用紙100枚から200枚程度の作品が候補に選ばれている。第1回の受賞者でありその後選考委員も務めた石川達三は対象となる作品の長さについて「せいぜい百五十枚までの短編」であるという見解を示したことがあるが、第51回(1964年上半期)受賞の柴田翔「されどわれらが日々―」は150枚を大幅に超える280枚の作品であった[12]。第50回(1963年下半期)芥川賞で井上光晴が「地の群れ」で候補に上がったときは、すでに無名作家でない上、作品が長すぎるという理由で選考からはずされたが、選考委員の石川淳は「いずれの理由も納得できない」と怒りを表明している[7]


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