芥川氏(あくたがわし)は、日本の氏族の一つ。芥川氏は摂津国芥川宿を拠点とし、室町時代から戦国時代にかけて活動した。芥河氏・摂津芥川氏とも記される[1]。 芥川氏の人物で最初に確認できるのは芥川豊後守
概要
豊後守の後継者と見られるのは芥川禅柏(豊後守、中務丞元信?[3])で、その養子は芥川彦太郎信方である。信方は本来は薬師寺長盛の子であるが、禅柏に実子がいなかったため芥川氏を継承した。細川澄元に与して細川高国と対立したため、永正5年(1508年)5月に堺で殺害されている。なお、禅柏は信方殺害時に阿波国へと逃れようとして溺死している[4]。
天文2年(1533年)には、細川晴元家臣の芥川常清(中務丞、豊後守)が足利義晴から御内書を受け取っている。常清は信方の養子であり、阿波芥川氏の出身であるとされる[5]。
『蜷川親俊日記』天文11年(1542年)6月13日条によれば、常清の子・芥川常信が足利義晴から毛氈鞍覆と白傘袋を賜っている。常信は従来三好長慶に与していたが、天文21年(1552年)4月には晴元方の波多野元秀と通じて長慶と敵対した。翌22年(1553年)8月には芥川山城は落城したため、常信は堺あるいは阿波国へと逃れた[6]。
脚注[脚注の使い方]
注釈
出典^ 中西裕樹「戦国期の摂津国人・芥川氏について[1]」『しろあとだより』3号(高槻市立しろあと歴史館、2011年)
^ 中西裕樹「戦国期の摂津国人・芥川氏について[2]」『しろあとだより』3号(高槻市立しろあと歴史館、2011年)
^ 松倉紹英「細川氏の興亡」『禅文化 第64号』(禅文化研究所、1972年)
^ 中西裕樹「戦国期の摂津国人・芥川氏について[3]」『しろあとだより』3号(高槻市立しろあと歴史館、2011年)
^ 嶋中佳輝「三好長慶入城前の芥川城と摂津上郡支配」『十六世紀史論叢』第18号(十六世紀史論叢刊行会、2023年)
^ 今谷明『戦国三好一族 天下に号令した戦国大名』洋泉社、2007年)
参考文献
今谷明『戦国三好一族 天下に号令した戦国大名』洋泉社、2007年。
嶋中佳輝「三好長慶入城前の芥川城と摂津上郡支配」『十六世紀史論叢』第18号、2023年。
中西裕樹 著「戦国期の摂津国人・芥川氏について」、高槻市立しろあと歴史館 編『しろあとだより』3号、高槻市立しろあと歴史館、2011年。https://www.city.takatsuki.osaka.jp/site/history/4538.html。