芝大神宮
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芝大神宮


拝殿
所在地東京都港区芝大門一丁目12番7号[1]
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度39分27.5秒 東経139度45分11秒 / 北緯35.657639度 東経139.75306度 / 35.657639; 139.75306 (芝大神宮)座標: 北緯35度39分27.5秒 東経139度45分11秒 / 北緯35.657639度 東経139.75306度 / 35.657639; 139.75306 (芝大神宮)
主祭神天照皇大御神
豊受大御神[1]
社格等旧府社・准勅祭社・東京十社
創建1005年寛弘2年)10月21日
本殿の様式神明造
別名芝神明宮・飯倉神明宮・関東のお伊勢様
例祭9月16日[1]
主な神事半鐘祭(2月3日)
だらだら祭り(9月11-21日)
貯金祭(10月17日)
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芝大神宮(しばだいじんぐう)は、東京都港区芝大門一丁目に鎮座する神社である。一時期准勅祭社とされた東京十社の1社で、旧社格府社
社名

もともとは、単に「神明」あるいは「神明宮」と称していたが、武蔵国日比谷郷に鎮座していたことから「日比谷神明(日比谷神明宮)」と、また飯倉御厨(後の武蔵国飯倉庄)に鎮座していたことから、「飯倉神明(飯倉神明宮)」と、さらに芝の地に住民が居留して町の様相を呈するに及び「芝神明(芝神明宮)」とも称されるに至った[注釈 1]。また別に、伊勢神宮の内外両宮の祭神を祀ることから、関東における伊勢信仰の中心的な役割を担い、「関東のお伊勢様」とも尊称された。明治維新にあたり、政府の教部省太政官正院並びに東京府の許可のもと、明治5年8月30日1872年10月2日)より、現今の神社名である「芝大神宮」を称す。
祭神

天照皇大御神 - 伊勢神宮内宮の主祭神である。

豊受大御神 - 伊勢神宮外宮の主祭神である。東京都内では珍しく「豊受大御神」の神札も授与している。

(相殿)源頼朝公

(相殿)徳川家康公


歴史

武蔵国に置かれた伊勢神宮の御厨である「飯倉御厨」(『神鳳鈔』)に創祀された神明社に起源を持つとされ、当初は飯倉山(現港区芝公園)に鎮座していた。社伝によれば、一条天皇の御代、寛弘2年9月16日1005年10月21日)、伊勢の内外両宮を勧請して創建し[2]日向国鵜戸郡から得た「鵜戸石」と剣を神宝として奉納したといい、源頼朝元暦元年(1185年)と建久4年(1193年)の2度に亘って神領を寄進し、特に後者においては自ら社参の上1300余貫の地を神田として寄進したという[2]。その後中世には東国武家から厚く崇敬され、建武4年1月7日1337年2月8日)には、足利尊氏の実弟直義が戦捷祈願に対する報賽の書状を奉納したほか(神社所蔵の伝直義執筆書状)、戦国時代には太田資長(道灌)の崇敬を受け、天正16年7月24日1588年9月14日)には、北条氏直による柴村に対しての制札が発布された(この制札も神社所蔵)。また、豊臣秀吉も天正18年7月19日1590年8月18日)あたりに、奥羽平定のために江戸を進発するに際して戦捷を祈願し、徳川家康も同年8月1日8月30日)、江戸入府に際して社参、翌19年11月28日1592年1月12日)、武蔵国日比谷郷に社領15石を寄進した。慶長3年(1598年)8月、増上寺が当神社の旧鎮座地(芝公園)へ移転することとなったため、現在地(港区芝大門)へ奉遷し、翌々5年9月1日1600年10月7日)、家康は関ヶ原出陣に際し、社参して戦捷祈願をし、同19年から20年にかけての大坂の陣では、徳川方の戦捷祈願をするべく、将軍秀忠の正室お江与の方(崇源院)の代参として、家光の乳母である春日局が社参をしている。以後、歴代将軍家・幕府の庇護を受け、社殿の造営・修復等は幕命により執行するとともに、幕府より種々の祈祷依頼があり[注釈 2]、大名による参詣等諸侯からも崇敬を受けた[注釈 3][注釈 4]

また市井においては、東海道沿線で江戸市中と市外の境界線上(近くに金杉橋あり)に鎮座し、増上寺も隣接することから、江戸時代に入って参詣者が増え、江戸から出府する旅人にとっては道中無事を、入府する旅人にとっては道中無事の報賽をといった祈願が行われた。さらに江戸時代にはお蔭参りといわれる伊勢神宮への参拝が数多く見受けられるが、高額な旅費と長期間の旅程を要し、容易に行うことは難しかったため、代わりに伊勢神宮の祭神を祀り江戸市中に鎮座する当神社への参詣者が増えていったと考えられる。参詣者が増えれば、それを当て込んで参道に数々の出店が見られるようになり、茶屋、揚弓場、吹き矢、花の露屋(化粧品)、角力、手妻(手品)、軽業、剣術、富籤興行、岡場所陰間などの風俗店や、芝居などの見世物小屋で賑わい、特に芝神明の太々餅は土産物として評判を呼び、名物となった。更に、江戸で出版された娯楽絵本の版元で、地本問屋として名を馳せた和泉屋市兵衛天明頃(1781-89年)には当神社近隣に店を構えていたといわれ、この界隈はマスコミの拠点にもなっていた。なお、大永年間(1521-27年)に近村から出火し、大風に煽られた火災によって類焼したのを始めとして、近世にはしばしば大火に見舞われ、その度に再建されている[注釈 5]

明治元年(1868年)10月、明治天皇東幸の際、本社を内侍所として小休し、同年11月8日1868年12月21日)、准勅祭社に指定され、翌2年(1869年)の長雨に際しては7月3日8月10日)に朝廷より止雨祈祷の依頼があるなど厚遇されたが、明治3年9月1日1870年9月25日)、准勅祭社制度の廃止に伴い、東京府の府社となった。明治9年(1876年)1月4日、火災により焼失したため、翌10年(1877年)3月に再建、大正12年(1923年)9月1日の関東大震災により倒壊延焼したため、昭和2年(1927年)8月、本殿等主要建造物を再建し、同13年(1938年)12月には完全再建されたが、同20年(1945年)5月26日に東京大空襲により焼失して終戦を迎えた。戦後は神社本庁に参加し、昭和22年(1947年)1月13日に本殿再建、同39年(1964年)9月12日には本殿再造営が完工し、平成17年(2005年)9月16日の例祭では、鎮座1000年を祝う「芝大神宮壱千年祭」を斎行し、併せて社務所等の改築を執り行い、現在の景観となる。「芝神明(芝大神宮)の太々餅」 江戸時代から土産物として親しまれたあんころ餅。芝神明の授与品として著名な、郷土玩具の千木筥(経木で作った小判型の曲物(箱)。三つ重ねにして藁で結ばれ、表面には泥絵具で 藤の花が描かれている。千木が千着に通じることから女性の衣服が増えると、箱の中の煎り豆を食べると雷除けになるとも伝えられる)と生姜(祭礼の生姜祭りは、風邪除けで知らる)の絵あり。「芝宮太々餅」と記された紙片が書き写されている。 ? 清水晴風著『東京名物百人一首』明治40年8月「芝神明(芝大神宮)の太々餅」より抜粋[3]
祭祀
神職

明治までは神主家2家と別当職(僧侶)が三頭体制で社務を執行し、別当が首座とされていた。神主職は創祀にあたって西東(さいとう)勝時が神職とされて以来、西東家が世襲し、11世紀末あるいは12世紀初頭に別家を立てて、2家の西東家にて継承して来たというが、文政年間(1818-1829年)に別家の西東家に後継者が出なかったため、北品川稲荷(現品川神社)の神主小泉家より迎え、家名小泉をそのままとして以降、西東・小泉の2家となった。


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