芙蓉グループ
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芙蓉グループ(ふようグループ、英語:FUYO GROUP)は、安田財閥浅野財閥大倉財閥等の系譜を引く企業と富士銀行(現みずほ銀行)の融資系列からなる企業集団である。芙蓉会、芙蓉懇談会に加盟する企業からなる。“芙蓉”の名は、中核だった富士銀行の“富士”の雅称に由来する[注 1]。芙蓉のローマ字表記の頭文字を取って「Fグループ」とも呼ばれる。

富士銀行との“つながり”がベースとなって形成された企業集団であり、「富士銀行を筆頭とする垂直関係を具備したグループとしての経営支配」ではなく、「グループ企業が互いに対等な関係にあっての業種を超えた交流」といえる。

古川鉄治郎の設立した財団の芙蓉会や、在韓日本婦人の会である芙蓉会は、いずれも芙蓉グループとは別の団体である。
歴史

安田財閥の創始者・安田善次郎は「金融業は金融業に徹するべき」という哲学をもっており、三菱三井住友のような他の財閥と異なり重工業や通商には参入しなかった。そのため経営資源を金融部門に集中することで金融財閥として成功、安田銀行安田火災安田生命などの強力な金融企業を育てた。また沖電気日本精工などといった旧安田関連の企業へも融資等を行っていたものの、企業の育成や経営支配などについてはおおよそ消極的であった。

安田善次郎の死後になって安田銀行も企業育成に乗り出すようになり、浅野財閥根津財閥大倉財閥など小規模財閥への融資を行った。また、新興財閥である森コンツェルン日産コンツェルンとも親密となる。しかし、これらは融資関係に留まり直系企業として産業を垂直支配しようとする動きはなかった。

第二次世界大戦後、安田財閥の持株会社であった安田保善社は、GHQによる財閥解体令を待たずして自主的に解散。プロパーの安田銀行幹部は安田家による同族経営と決別し、1948年に安田銀行は富士銀行と改称した。これ以降も戦前の小財閥との関係は続いた。
経済主流取引

富士は、終戦後、しばらく都市銀行界においてトップの地位にあった。だが、2位の三菱銀行、3位の住友銀行企業集団を背景にトップの座を目指し猛攻を開始。旧安田財閥には事業部門に優良企業がなかったため、富士は苦戦が目立ち始めた。そこで、案出された戦略が「経済主流取引」であった。「経済主流取引」とは、その時々の経済情勢において、主流を成すと思われる経済主体(当時は大企業)取引を強化しメインバンクとなることであり、富士は東京大学卒の優秀な行員を企画部に配置。「経済主流取引」を任せられる有為な人材の育成に力を注いだ[1]。この「経済主流取引」が全店レベルで実践に移されると、重点を置く企業の取引担当店(主管店)が取引先を調べ、その取引先の所在地の支店と協力しながら、取引を開拓する「躍進三大運動」(預金の躍進、基盤の確立、合理化)を展開した。なお、この「経済主流取引」なる用語を考えた出したのは業務部綜合企画課課長代理であった松沢卓二(のち頭取)であった[2]

富士を中心とした企業集団が明確に形成されるのは、1950年代のことである。当時常務であった岩佐凱実(のち頭取)が中心となって有力取引先の社長らと懇談を重ね、融資先とのコネクションの形成を担った[3]。そうした中、島屋から分離して発足した商社の高島屋飯田が経営不安に陥り、再建策が俎上に載った。当初三井物産などに営業譲渡が模索されたが、結果として富士の主導で丸紅との合併話が進み、丸紅飯田(のち丸紅に改称)が誕生した。これに伴い、融資系列も住友銀行から富士の系列となり、丸紅は富士における融資系列を代表する企業となった。加えて丸紅は富士の融資系列企業との商取引も拡大。これによって、従前、繊維部門偏重だった丸紅は総合商社として脱皮することに成功した[3]。こうして、資金の流れを管理する銀行・モノの流れを管理する商社からなる戦後高度経済成長の企業集団に必要な二つの要素が揃い、芙蓉グループの基礎が整った。
芙蓉懇談会・芙蓉会結成

富士は1960年4月、日本鋼管(現JFEホールディングス)の千葉進出計画を契機に富士、丸紅飯田、日本鋼管、昭和電工(現レゾナック・ホールディングス)、東燃石油化学(現東燃化学)、日本油槽船(現日本郵船)による「企画部長会」を結成。徐々に参加メンバーを拡げ、1963年11月にグループ機関誌「F」を創刊した。そして、1964年12月に富士の融資系列企業22社の営業担当役員が一堂に会して、第一回販売促進グループ懇談会を開催。 のちにこの会合を「芙蓉懇談会」と改称した[4]

同じ頃三菱グループが「BUY三菱」(三菱を買いましょう)運動を始め、1965年に「あなたの三菱、世界の三菱」をグループの共通宣伝標語として三菱グループ企業の従業員とその家族を対象として「三菱ファミリー・ショー」を開催した[5]。すると、これに追随し住友グループ三井グループも企業集団ぐるみの広報・マーケティングを展開し始めた。

こうした動きを見て、三大財閥の系譜を引かない企業間でグループ化して対抗していかなければならないとの機運が高まり、1966年1月に富士は融資系列に有力財界人を加えて社長会「芙蓉会」を結成[6]。また副社長会「芙二会」、総務部長会「芙総会」、企画部長会「芙水会」と各役職ごとの会も生まれた[7]

芙蓉グループの特徴として、歴史的な因縁で結ばれた財閥系グループと異なり、合理性のある、反面ドライな繋がりであることが挙げられる。芙蓉懇談会の発足に際しても、富士頭取の岩佐凱実は「歴史的資本的に強く結びついた閉鎖的なものでなく、相互連携のメリットを求め合う友人のような企業の集まりに」と述べている。後に頭取を務めた松澤卓二は「他のグループの企業と連携することは一向に差し支えない」と発言している。

芙蓉グループの発足に沿って、グループの総合化を図ろうとかつての財閥系列以外の企業も積極的にグループに取り込んだほか、共同投資会社の設立も活発となった。この方針に則り、1969年に芙蓉海洋開発、また翌年5月に芙蓉情報センター(現みずほリサーチ&テクノロジーズ)が発足した際には系列以外も含めて出資先は53社を数えた[8]。このほか1972年に芙蓉総合開発(現ヒューリック)、1973年に芙蓉石油開発の共同投資会社も設立した[9][注 2][注 3]。下記加盟企業にあるように、「融資系列」として親密になったメンバーも多い。しかし、2度のオイルショックによる景気後退で、企業の資金需要が後退し、都市銀行の威光に翳りが見え始めると[10]、1978年頃には富士と非財閥系である三和銀行との合併計画も現出[注 4]、次第に芙蓉グループは求心力を弱めていく。
バブル経済後

バブル景気崩壊後は、富士の巨額不良債権問題と公的資金注入および芙蓉懇談会メンバーであった主幹事証券の山一證券の自主廃業、それに連動し富士と安田信託銀行の株式の売り浴びせなど[12]、芙蓉グループに所属する企業は時代の荒波をもろにかぶった。


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