色川武大
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

色川大吉」とは異なります。
.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}画像提供依頼:顔写真の画像提供をお願いします。(2022年10月)

色川 武大
(いろかわ たけひろ)
ペンネーム阿佐田 哲也、井上 志摩夫、雀風子
誕生1929年3月28日
東京府東京市牛込区(現・東京都新宿区
死没 (1989-04-10) 1989年4月10日(60歳没)
宮城県栗原郡瀬峰町(現・栗原市)宮城県立瀬峰病院[1]
職業小説家随筆家
国籍 日本
代表作『麻雀放浪記』(1969年 - 1972年)
『怪しい来客簿』(1977年、短編集)
『離婚』(1978年)
『百』(1982年)
『狂人日記』(1988年)
主な受賞歴泉鏡花文学賞(1977年)
直木三十五賞(1978年)
川端康成文学賞(1982年)
読売文学賞(1989年)
ウィキポータル 文学
テンプレートを表示
ポータル 文学

色川 武大(いろかわ たけひろ、1929年昭和4年〉3月28日 - 1989年平成元年〉4月10日)は、日本小説家エッセイスト雀士筆名として色川 武大(いろかわ ぶだい)、阿佐田 哲也(あさだ てつや)、井上 志摩夫(いのうえ しまお)、雀風子を名乗った。阿佐田哲也名義では麻雀小説作家として知られる。
略歴

東京府東京市牛込区(現・東京都新宿区矢来町生まれ。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}祖父の色川圀士は文部官僚[要検証ノート][2]。分家筋に衆院議員の色川三郎兵衛がいる[3]

父親の色川武夫は色川三中の弟・色川御蔭の長男・誠一の子で[4]、40代の若さで退役した海軍大佐であった。武大は父が44歳のときに初めて生まれた長男であった。父は何も仕事をせず、常に自宅におり、家族は軍人恩給で生活していた。また、父は子どもをしかる時は鞭をつかい、98歳の長命を保った。この父親との関係は、色川文学の大きなテーマの一つとなっている。色川が小学校入学の年に弟が生まれる。

学校生活になじめず、小学生時代から学校をサボって浅草興行街に出入りし、映画寄席喜劇などに熱中する。あまりに学校をサボるので塾に通わされたが、そこもサボって寄席に通っていた。

アメリカ映画のスタッフの名前を覚えて各人の社歴を注視したり、実在の相撲の力士や野球選手の名前を書いたカードを作り、サイコロを振って勝敗をつける独自のゲームを考案して一人遊びに熱中したりした。相撲ゲームには20代半ばまで熱中し、以後は実在の競輪選手4000人のカードを作り、それを使ったゲームにも熱中したりした。

1941年旧制東京市立第三中学校(現・東京都立文京高等学校)に進学。1943年からは勤労動員で工場で働くが、ガリ版同人誌を密かに発行していたことが露見し、無期停学処分を受ける。

1945年終戦を迎えるが、無期停学処分のままだったために進級も転校もできず、結果的に中学を中退。父親の恩給が止まったため、生活のため以後5年ほどかつぎ屋闇屋、街頭の立ち売り、博徒などの職を転々とし、アウトローの生活へ身を投じる。

後に執筆した『麻雀放浪記』の主人公「坊や哲」や「女衒の達」さながらのバクチ修行をし、サイコロ博打や麻雀の腕を磨く。稼いだ時は上宿へ泊まり、文無しになった際は野宿をした。このギャンブル没頭時代に、後に彼の人生自身の哲学となる「ツキの流れを読んでそれに従う」「欲張りすぎず、(相撲でいえば)九勝六敗を狙う」などの考えを身につける。

やがて1950年(昭和25年)頃から各種業界紙を転々と渡り歩くようになる。1953年(昭和28年)には桃園書房に入社。事実上アウトローの世界より引退。『小説倶楽部』誌の編集者として藤原審爾山田風太郎のサロンに出入りをする。特に、藤原には「人生の師匠」とまで傾倒していた。

この頃の色川は(本人は「顔も声も悪い」と言ってはいたが)痩身の美男子であった。また山田によると「円形恐怖症」で、リンゴ、卵、ボールなどを怖がり、のちの『怪しい来客簿』では「山が怖い」と書かれている。

この頃から既に後に病名が判明するナルコレプシーの兆候があり、山田宅や藤原宅で麻雀が催されると自分の番が来るまでに寝てしまい、その度に起こされていたという。なお、麻雀の玄人であったことがばれないよう、トップにはならず「いつも、少しだけ浮く」という麻雀を打っていた。吉行淳之介はその打ち方を見て不審に感じ、のち阿佐田哲也名義で『麻雀放浪記』が刊行された際、「この作者はおそらく色川武大だ」と直感したという。

藤原の主宰する小説勉強会で知り合った当時北海道新聞の記者をしていた夏堀正元が色川を「傑作を書ける男だ」と『中央公論』の笹原金次郎に紹介した。この頃、夏堀正元の紹介で新日本文学会にも入会[5]。当時の色川は「あまり本を読まない文学青年」で、夏堀が薦めたドストエフスキー等には反応せず『旧約新約聖書』に熱中していた。

1955年(昭和30年)に桃園書房をクビになり、以降、生活のために「井上志摩夫」名義での娯楽小説を書く。この頃から新宿ゴールデン街の名物バー『まえだ』に通うようになる。

1961年(昭和36年)に、父親のことを書き本名で応募した『黒い布』が伊藤整武田泰淳三島由紀夫の激賞を受け、第6回中央公論新人賞を受賞。なお、この受賞パーティが野坂昭如の「文壇パーティ・デビュー」の会でもあり、後の野坂の小説『文壇』でその様子が描写されている。

しかしその後はスランプに陥り、以降しばらく同人誌での活動を行う。また「生活費は競輪などのギャンブルで稼いでいる」と知人には語っていた。

夏堀正元、井出孫六黒井千次らと同人誌『層』発刊。また近藤信行平岡篤頼古井由吉等の同人誌『白猫』にも参加。有馬頼義主宰の若手作家の文学サロン「石の会」では高井有一高橋昌男五木寛之佃實夫萩原葉子室生朝子中山あい子後藤明生森内俊雄渡辺淳一、梅谷馨一、立松和平らを知る。

1966年(昭和41年)に『週刊大衆』に「雀風子」の筆名で『マージャン講座』というコラムを執筆したところ人気を博し、この連載はタイトルを変更しながらも2年間続く。この頃から原因不明の睡眠発作・脱力症状・幻視・幻聴・幻覚(後述)に悩まされるようになり、治療費が必要になる場合に備えて、さらに別の名前で執筆することを決めた。

1968年(昭和43年)に『週刊大衆』に「阿佐田哲也」名義で発表した『天和の職人』などで「麻雀の配牌が作中に記載されている麻雀小説」を発明する。

1969年(昭和44年)に、やはり『週刊大衆』に連載を開始した自伝的小説『麻雀放浪記』シリーズで若い読者の圧倒的人気を得て脚光を浴び、世は麻雀ブームとなる。以後、麻雀小説を多数執筆し、その影響で「麻雀専門誌」や「麻雀専門劇画誌」などが生まれ、その多くに阿佐田は執筆した。

1970年(昭和45年)から『週刊ポスト』において作家や芸能人、スポーツ選手などが参加する「麻雀勝抜き戦」の「観戦記」を執筆し始める(1976年まで)。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:110 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef