良源
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良源
912年10月15日 - 985年1月26日
慈恵大師坐像(ヒノキ寄木内刳)弘安9年(1286年)蓮妙作。滋賀県愛荘町金剛輪寺東京国立博物館寄託)重要文化財
号(金剛名号)常住金剛
諡号慈恵
尊称慈恵大師
元三大師
角大師
豆大師
厄除け大師
生地近江国虎姫玉泉寺
没地坂本求法寺
宗派天台宗
師理仙
弟子源信
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良源(りょうげん、延喜12年9月3日912年10月15日) - 永観3年1月3日985年1月26日))は、平安時代天台宗の僧。諡号は慈恵(じえ)。一般には通称の慈恵大師、元三大師(がんざんだいし)の名で知られる。第18代天台座主(天台宗の最高の位)であり、比叡山延暦寺の中興の祖として知られる。また、中世以降は民間において「厄除け大師」など独特の信仰を集め今日に至る。

「定心房(じょうしんぼう)」と呼ばれる漬物を伝授しており、これを沢庵漬けの始祖とする説もある[1]
略歴

良源は延喜12年(912年)、近江国浅井郡虎姫(現・滋賀県長浜市)に、地元の豪族・木津(こづ)氏の子として生まれた。幼名は観音丸といった。また、『饗場家文書』によると父は饗場重頼、母は物部憲興の娘で良源は次男、幼名は日吉丸であるとする[2]。『江州浅井郡三河村慈恵大師縁起』によると母の名は月子女であるという[3]

延長3年(923年)、12歳の時(15歳ともいう)に比叡山延暦寺に上り仏門に入った[4]。良源は最澄(伝教大師)の直系の弟子ではなく、身分も高くはなかった。しかし、承平7年(937年)に法相宗興福寺の義昭と法論を行って論破したことで注目を浴びるようになった[5]。その後、天慶年間(938年 - 947年)に覚恵の弟子となり藤原忠平の目にとまることとなる[6]

天暦3年(949年)8月に忠平が亡くなると、良源は当時廃れていた横川に入って忠平の菩提を弔っている[7]。以後、忠平の子師輔と近しい関係となり、外護を受け寄進を受けたりしている。横川は良源によって再興されると良源の拠点とされた。後には自らの住房として定心房(現・四季講堂(元三大師堂))も造られている。そもそも横川は円仁が開いた場所であり[8]、良源は円仁派なので都合も良かったという。また、延暦寺は承平5年(935年)3月の大規模な火災で東塔の根本中堂を初めとする多くの堂塔を失っていたが、こちらの復興も進めらていた。

村上天皇中宮で師輔の娘でもある安子の安産祈願を行うと、天暦4年(950年)7月には生まれたばかりの憲平親王(冷泉天皇)の東宮護持僧に任じられている[9]。翌天暦5年(951年)には師・覚恵から阿闍梨を譲られている[10]

天徳2年(958年)8月には師輔の10男・尋禅を将来の良源の後継者とする予定で弟子としている[11]。これによってより師輔との間はより親密となり、以後も藤原氏からは物心ともに厚い帰依を受けている。だが、これによって名家の子が出家して延暦寺で出世していくという比叡山の世俗化を招くこととなった[12]

しかし、一方では応和元年(961年)12月に尋禅の兄の藤原高光が急に出家したいといい、ついに延暦寺で出家したことについて非難している。これは全く予定になく、良源にとっても尋禅にとっても何の益にもならないことだからだという[13]。また、応和3年(963年)には弟子の増賀が、良源があまりにも功利的、打算的な行動ばかりするのであきれ果て、横川から多武峰に移住してしまうなど離れる弟子も出ている[14]

康保2年(965年)12月に権律師に任じられ[15]、翌康保3年(966年)8月には天台宗最高の地位である第18代天台座主に任じられた[16]。だが、9月には節目節目に長寿を祝う法要を行っていた最愛の母を81歳で亡くし[17]、10月には延暦寺東塔が根本中堂を残して講堂以下31宇の堂が焼失するという悲運に見舞われた[18]。だが、すぐに復興計画が立てられ、12月には律師に昇進している[19]。この後は藤原氏の後援で焼失した堂塔を再建することになる。

天禄元年(970年)7月16日には寺内の規律を定めた「二十六ヶ条起請」を公布し、僧兵の乱暴を抑えることにも意を配った[20]。ただし、応永16年(1409年)の『山家要記浅略』では、反対に僧兵の創始者とされている[21]

天禄3年(972年)正月に良源の拠点である横川が独立し、比叡山は東塔、西塔、横川の三地区の体制となる[22]。同年4月にはようやく復興が完了している[23]。翌5月、良源は病にかかってしまい遺言状をしたため、尋禅を師輔との約束の通りに後継者に指名している。ただ、その後体調は回復している[24]。また、同年には根本中堂に置かれている3基の不滅の法燈を統合して1基のみにしている[25]。しかし、後に再び3基に戻されている。

良源は比叡山の伽藍の復興、天台教学の興隆、山内の規律の維持など様々な功績から延暦寺中興の祖として尊ばれている。弟子も多く、中でも『往生要集』の著者・源信(恵心僧都)は著名である。

天延2年(974年)5月7日、興福寺の末寺であった祇園感神院(現・八坂神社)を延暦寺の末寺とし、都での天台宗勢力の強化を行った[26]

天元2年(979年)4月1日に唐崎で地主三聖祭を行ったが、この時良源は2700人にも及ぶ延暦寺の全ての僧に出席を求めていた。しかし、出席したのは2000人であった。怒った良源は地主三聖祭が終わると欠席した700人の僧籍を剥奪している[27]。天元3年(980年)9月3日には最澄の創建当初は小規模な堂だった根本中堂を壮大な堂として作り直し、比叡山の伽藍の基礎を造った[28]

天元4年(981年)8月30日に僧綱の最上位である大僧正に昇進する[29]。これは、天平17年(745年)に行基が最初に任じられて[30]以来のことである。また、同日には寛朝が僧正に、尋禅が権僧正に任じられて僧正が3名となった。僧正が3名もいるのは初めてのことである[31]

同年11月29日に円珍派の余慶(後の第20代天台座主)が法性寺座主に任じられた。しかし、法性寺は創建以来9代続けて円仁派の僧が座主に任じられていたため、この事は大いに円仁派の反発を招いた。これにより、円仁派の主な僧22名が僧160余人を率いて関白藤原頼忠の屋敷を取り囲むという行動に走った。これは、記録に残るうえで比叡山の僧がこうした恣意行動をとった初めての事例である。結局12月13日に余慶は辞任したが円仁派と円珍派の対立は翌年まで続いた[32]。ただ、この間良源は円仁派を抑えることもせず、また頼忠の屋敷を取り囲んだ僧を罰することもしていない。むしろ彼らを陰で扇動していた疑いすらあるという[33]

永観3年(985年)1月3日、近江国坂本求法寺(弘法寺)にて没した[34]


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