良成親王(よしなりしんのう/ながなりしんのう[2])は、南北朝時代から室町時代初期にかけての南朝の皇族。近世の南朝系図によると、後村上天皇の第六皇子[3]で、母は越智家栄の女・冷泉局(新待賢門院冷泉)とされるが、同時代史料には名が見えないため、親王の実在自体を疑う説は少なくない。だが、征西将軍懐良親王(後醍醐天皇皇子)の跡を継承して九州南軍を指揮した後征西将軍宮(のちのせいせいしょうぐんのみや)とは、良成親王に比定されるのが旧来の通説であり[4]、他に有力な異説も見当たらないため(後述)、本項では後征西将軍宮の事績を親王のそれとして記述する。 正平21年/貞治5年(1366年)頃にわずか数歳で九州征西府(大宰府)へ下向。親王宣下を受けた後、正平24年/応安2年(1369年)12月伊予の河野通直の許に派遣され、しばらく所領訴訟の処理などの領国経営に当たる。この征討行は、四国管領細川頼之の上洛(1367年)後に通直が勢力拡大しつつあるのに乗じ、征西府が瀬戸内海の東上路を確保するため企図したものという。文中3年/応安7年(1374年)冬には征西府(隈部城)へ戻り、叔父・懐良親王から征西将軍職を譲られた。託麻原古戦場(熊本市)
経歴
託麻原での奮戦(佐賀市)へ出陣。幕府方の今川貞世(了俊)の軍と対陣するが交戦には至らず、この間阿蘇氏に令旨を発給して危急に備えている。両軍はそのまま年を越し、天授3年/永和3年(1377年)1月国府近くの千布・蜷打で一戦を交えた(肥前蜷打の戦い
移ろう征西将軍府宇土城跡(熊本県宇土市)
託麻原で敗戦した今川仲秋は天授5年/康暦元年(1379年)6月以降しばしば肥後に侵入しては諸城を攻撃し、天授6年/康暦2年(1380年)菊池十八外城への通路を塞いで兵糧の搬入を閉ざし、遠方より包囲する戦法に出た。親王を奉じる菊池氏は隈部城に籠城を続けたが、弘和元年/永徳元年(1381年)6月仲秋の夜襲を受け、武興の本拠隈部城と親王の在所染土城はともに陥落。親王は武興を率いて金峰山中の「たけ」(熊本市河内町岳)に征西府を移した。当時の南朝方はもはや衰亡の色を隠せず、当面「たけ」に潜んで幕府方の攻撃を避けざるを得ない悲運の中、懐良と良成との間、また菊池氏の間でも内訌が生じるという末期的様相を帯びていた。 ところが、弘和3年/永徳3年(1383年)4月今川方の相良前頼が帰順すると、南肥後の南軍がにわかに活気付いて勢力を強め、元中元年/至徳元年(1384年)頃には宇土氏と河尻氏の援助を得て宇土(熊本県宇土市)へ征西府を移転。元中2年/至徳2年(1385年)1月島津氏と前頼の和睦に続き、2月大隅の禰寝氏も帰順し、南九州の諸氏が相次いで今川方から離反する事態に発展した。なお、親王は同年2月に前頼の軍功を賞し、彼を肥前守護職に補している[6]。高田御所跡(熊本県八代市) 八代陥落後、残る南朝方の根拠地はわずかに星野、矢部(福岡県八女市矢部村)のみとなった。同年10月筑後守護大友親世らが了俊の命で矢部に来襲するも、五條頼治
宇土・八代の陥落両城への攻撃を敢行した。了俊が隈牟田・赤山など諸城を攻めている最中、前頼は球磨から反撃を加えて征西府の危急を救ったので、元中4年/至徳4年(1387年)7月親王(兵部卿親王[7])はその軍功を賞している。これより数年は両軍ともに動かず、征西府はしばしの小康を迎えたが、その間には阿蘇氏・名和氏との連合を強めつつ、遠く筑後の五條氏に通じて再興の機会を窺っていたのであろう。しかし、今川貞臣が父・了俊の命で専ら南朝方攻略に従事するようになり、元中7年/明徳元年(1390年)9月肥前深堀氏らの援軍を率いて宇土・河尻両城を陥落する[8]。親王は武朝とともに名和顕興を頼って八代に逃れ、高田(熊本県八代市奈良木町宮園)に征西府を移した。ところが、元中8年/明徳2年(1391年)貞臣はこれを追撃して南進し、八代諸城の攻略を開始。顕興はこれを防がんと転戦するが戦況不利にして敵わず、9月に親王はやむなく今川軍との和睦を結んで八代城も陥落に至った。この際、武朝は行方を晦ましている。良成親王墓(福岡県八女市 )墓前で奉納される浦安の舞
南北朝合一と終焉