良寛
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乳製品メーカーについては「良寛 (乳製品メーカー)」をご覧ください。
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良寛
1758年11月2日 - 1831年2月18日
長岡市隆泉寺の良寛像
生地越後国
宗派曹洞宗
師国仙和尚
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良寛(りょうかん、宝暦8年10月2日1758年11月2日) - 天保2年1月6日1831年2月18日))は、江戸時代後期の曹洞宗僧侶歌人漢詩人書家。号は大愚。名は栄蔵[1]
生涯良寛像と自賛和歌心月輪 木刻

越後国出雲崎(現・新潟県三島郡出雲崎町)に、四男三女の長子として生まれた[注 1]。生家はこの地区の名主・橘屋であり、父・以南は名主の傍ら[2]石井神社の祠職を務め、俳人でもあった。良寛は跡を継ぐために名主見習いをしたが、見習い2年目の18歳の時、突如出家して子供の頃に勉学を積んだ、曹洞宗海嶽山光照寺(出雲崎町尼瀬)[3]で修行を始めた。この年、全国各地で米騒動が頻発し、越後でも天災・悪疫・凶作によって餓死者を出しており、村人の争いを調停し、盗人の処刑に立ち会わなければならなかった名主見習いの良寛には、「この世は救いのない人間がいる哀れな世界」と感じられた。両親の説得にもかかわらず良寛は頑なに修行を続け、出家した。

安永8年(1779年)22歳の時、備中玉島(現・岡山県倉敷市)の円通寺の国仙和尚を生涯の師と定め、師事する。良寛は故郷を捨てたが「この世にあらん限りは父母の言葉を身に包み生きよう」と誓った。円通寺の格式は高く、入門には厳しい戒律を通過しなければならなかった。経を学ぶことより勤労に励むことを第一としており、「一日作らざる者は、一日食わず」と国仙和尚は日を変え言葉を変えて良寛に説いた。その教えは後の良寛の生き方に強い影響を与えることとなる。修行4年目の春、良寛は母の訃報に接したが帰郷は許されず、円通寺での修行は12年に及んだ[注 2]

寛政2年(1790年)印可(修行を終えて一人前の僧となった証明)を賜る。翌年、良寛34歳の時「好きなように旅をするがよい」と言い残して世を去った国仙和尚の言葉を受け、諸国を巡り始めた。父の訃報を受けても放浪の旅は続け、義提尼から和歌の影響を受ける。

48歳の時、越後国蒲原郡国上村(現燕市)国上山(くがみやま)国上寺(こくじょうじ)の「五合庵」(国上寺本堂を再建した客僧萬元上人が毎日米五合を給されていたことに由来)で書を学ぶ。その手本として『秋萩帖』を自ら選んだ。五合庵の良寛は何事にもとらわれず何者にも煩わせることもないといった生活を送った。が顔を覗かせれば居間を譲り、子供にせがまれれば日が落ちるまで鞠付きに興じた。歌集『布留散東』に「この里に手まりつきつつ子どもらと遊ぶ春日は暮れずともよし」と残している。また、書は良寛にとって@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}鬱勃とした心情を吐露するものであった[要出典]。書を学ぶうち、従来の書法では自身の心情を表すことができなくなり、良寛独自の書法を編み出している。良寛の書は上手に見せようとするものではなく、「一つの点を打つ」、「一つの棒を引く」その位置の僅かなズレが文字の命を奪う、という際どい瀬戸際に筆を運んででき上がるものだった。五合庵での階段の昇り降りが辛くなり、61歳の時乙子神社境内の草庵に居を構えた。円熟期に達した良寛の書はこの時に生まれている。

70歳の時、島崎村(現長岡市)の木村元右衛門邸内に住んだ。無欲恬淡な性格で生涯寺をもたず、諸民に信頼され、よく教化に努めた。民衆に対しては難しい説法を行わず、自らの質素な生活を示したり、簡単な言葉(格言)によって、一般庶民に解りやすく仏法を説いた。その姿勢は、一般民衆だけでなく様々な人々の共感や信頼を得ることになった。隆泉寺(新潟県長岡市島崎)にある良寛の墓

最期を看取った弟子の貞心尼が『蓮の露』に良寛の和歌を記録した。良寛は他に漢詩狂歌俳句俗謡に巧みで、の達人でもあった(したがって後世の贋作も多い)。新潟県長岡市島崎の(西證院)隆泉寺[4]に眠る。
人物

子供達を愛し、積極的に遊んだ良寛の行動は、人々の記憶に残っている。

良寛は「子供の純真な
こそが誠のの心」と解釈し[要出典]、子供達と遊ぶことを好み、かくれんぼ手毬をついたりしてよく遊んだという[注 3]

名書家として知られたものの、高名な人物からの書の依頼は断る傾向にあった。しかし、子供達から「文字を書いて欲しい」と頼まれた時には喜んで『天上大風』(てんじょうたいふう)という文字を書いたという[注 4]

ある日の夕暮れ時に、良寛は隠れん坊をして子供達と遊んでいて自分が隠れる番になり、田んぼにうまく隠れ得た。しかし、日が暮れて暗くなり、子供達は良寛だけを探し出せないまま家に帰ってしまった。翌朝早くに、ある農夫が田んぼに来ると、そこに良寛が居たので驚いて問い質したところ、良寛は「静かに!そんな大声を出せば、子供達に見つかってしまうではないか」と言ったという。

このような類いの話が伝えられ、子供向けの童話などとして紹介されることによって、良寛に対する親しみ深い印象は現在にまで伝わっている。
言葉

地震で子を亡くした俳人 山田杜皐(やまだとこう)に宛てた見舞文の一部[6]

災難に逢う時節には災難に逢うがよく候、死ぬる時節には死ぬがよく候、是はこれ災難をのがるる妙法にて候 [7]

1828年 良寛が71歳の時、三条地震と呼ばれる大地震があった。震度7相当の揺れがあったと推定され、死者1,000名以上であった。震源のすぐ南に位置する与板にいた良寛と親しい知人のうち、とりわけ山田杜皐は良寛をあだ名「蛍」と呼ぶほど仲が良かった[6]。杜皐はこの地震で子を亡くしてしまったが、同じく被害に遭ったと思われる良寛に見舞いの手紙を送った。良寛が自分が無事であることを伝える返事の末尾に添えたのが上の言葉である。仏教の思想を、とりわけ四苦八苦から逃れようとするから苦悩が生じるのであって、四諦として受け容れるしかないということをよく学んでいる杜皐は、この言葉の意味をよく理解したはずである。
辞世

良寛の辞世の句は、貞心尼が『蓮の露』に記録している。臨終の場で詠んだのではないが、実弟の由之に形見として送った歌が、由之の日記『八重菊』に遺されている[8]


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