船越義珍
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船越義珍

船越 義珍(ふなこし ぎちん、1868年12月23日明治元年11月10日〉 - 1957年昭和32年〉4月26日)は、沖縄県出身の空手家。初めて空手(当時は唐手)を本土に紹介した空手の創始者であり、松濤館流の事実上の開祖。本土での空手普及に功績があった。
生涯
生い立ち

船越義珍は、明治元年(1868年、戸籍上は明治3年)、冨名腰義枢[1]の長男として、首里山川村(現・那覇市首里山川町)に生まれた[1]。童名は思亀(ウミカミ)、唐名は容宜仁(ヨージニ)。容氏冨名腰家は、泊士族の名門・容氏山田家の支流(分家)であり、代々首里王府に仕えた下級士族(筑登之〈チクドゥン〉家)であった。祖父・義福は、聞得大君御殿(チフェウフジンウドゥン、最高神女・聞得大君の住まう御殿)の台所方筆者(書記職)を務め、退職の際には汀良村(現・那覇市首里汀良町)に家屋敷を賜ったとされるが、父・義枢が大酒飲みであったため一家は没落し、義珍が生まれたときには、借家住まいの困窮した生活を送っていた。

船越は早産だったこともあってか幼少の頃は病弱で、そのため母の実家・親泊家で育てられた。当初、医学校入学を希望していたが、士族の象徴である欹髻(カタカシラ・まげ)を切ることが条件であったため断念し、代わりに教員の道を選んだ。沖縄県尋常師範学校(明治13年開校。後、沖縄県師範学校に改称)の速成科(一年課程)を卒業すると、船越は準訓導の検定試験に合格し、数え年で21歳(明治20年)の時、まず代用教員(準訓導)として教師生活のスタートを切った。その後、尋常科正科訓導検定にも合格し、正教員(訓導)に昇格した。
沖縄時代巻藁を突く船越義珍

湖城家(湖城流)の証言によれば、船越義珍は、明治18年(1885年)春、16歳の時に初め那覇手の大家・湖城大禎(1837年 - 1917年)に唐手を師事したとされる[2]。しかし、5尺に満たない体格に那覇手が合わない、または大禎との折り合いが悪かったのか、船越が師事した期間はわずか三ヶ月間に留まった。

その後、船越は首里手の大家・安里安恒に本格的に師事することになった。首里貴族である安里が、泊士族の家系である船越に首里手を教授することになった理由は、船越が安里の長男と懇意であったからである。安里に師事した正確な時期は不明であるが、船越によれば、安里は最後の琉球国王であった尚泰侯爵に随行して、明治12年(1879年)から13年間、東京の麹町千代田区)の尚家に仕えていたという[3]。安里が沖縄に帰郷したのは、明治25年(1892年)であった。それゆえ、船越が安里に師事したのは、24歳以降であったと推定される[4]。安里からは特に公相君(観空)の型を学び、これは船越得意の型となった。

なお、鎌倉円覚寺境内に建てられた石碑の碑文(大浜信泉書)には「十一歳の頃より唐手術を安里安恒、糸洲安恒の両師に学び…」とあるが、安里の東京滞在中と期間が重なり、信憑性に乏しい。船越は安里の唯一の弟子であった。また、安里に師事するかたわら、安里とは同じ松村宗棍門下で友人でもあった糸洲安恒にも師事したと言われている。しかし、摩文仁賢和の長男・摩文仁賢榮は、船越は息子の船越義豪を通じて、摩文仁賢和から糸洲の型を習得したのであり、糸洲には直接は師事していないと、その経歴を否定している[5]

小学校で教鞭を執りながら、船越は小学生達に唐手も指導していた。大正5年(1916年)頃、泊小学校で船越に唐手を習った長嶺将真によると、船越は生徒達にナイファンチ(鉄騎)やピンアン(平安)の型を教えていた[6]。なお、藤原稜三によれば、船越は摩文仁賢和からピンアンを学んだという[7]。これは、船越が安里の直弟子で、糸洲からピンアン(糸洲の創作型)を習得する十分な機会に恵まれなかったからだと思われる。しかし、後には「ピンアン先生」とあだ名されるほど、船越得意の型の一つになった。

その後、三十有余年続いた教員生活を終えると、船越は先輩や友人たちと私的に沖縄学生後援会や沖縄尚武会などを設立し、学生の支援や唐手の普及、統一の活動を始めた。

大正5年(1916年)京都武徳殿において唐手を演武。

大正6年(1917年)5月、船越は摩文仁賢和が自宅で開いた「沖縄唐手研究会」に参加。この会には、屋部憲通花城長茂宮城長順なども参加していた。また、大正8年(1919年)からは屋部憲通の推薦を受けて、沖縄県師範学校の予科(明治41年開設)の生徒達に、課外体育として唐手を指導した。

大正10年(1921年)3月、欧州外遊の途中、沖縄に立ち寄った昭和天皇(当時・皇太子)の前で、中学校・師範学校生徒が首里城で唐手の御前演武することになり、船越はその指揮を採った。
本土時代観空(公相君)を演武する船越義珍

大正11年(1922年)5月、船越は上京して文部省主催の第一回体育展覧会(東京女子高等師範学校附属教育博物館)において、唐手の型や組手の写真を二幅の掛け軸にまとめてパネル展示を行った[8]。翌6月には、講道館に招かれて、嘉納治五郎柔道有段者を前にして、船越と東京商科大学(現・一橋大学)の学生・儀間真謹の二人で、唐手の演武と解説を行った。このとき船越は公相君、儀間はナイファンチを演武した。下富坂(文京区)の道場に、二百人の館員が集まって参観したと言われる。船越は、そのまま東京に留まり、沖縄県出身者のための学生寮「明正塾」に寄宿しながら、東京で唐手の指導をすることになった。11月には、空手史上初となる『琉球拳法 唐手』[2]を出版した。

講道館の演武は型だけの単独演武だったこともあり、乱取り稽古を重視する柔道家には、あまり強い印象を与えることができなかったとされる[9]


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