船舶無線(せんぱくむせん)とは、船舶の安全航行確保に用いられる業務無線の総称である。 無線通信用の他にレーダーやビーコンなど無線航行用があり、海上保安庁、海運事業者、漁業協同組合などが利用している。使用する無線機器については、電波を発射するものは無線局の免許を要する。その操作には、一部を除き海上無線通信士など無線従事者も要する。 長距離通信には従来短波帯が多用されていたが、衛星通信の発達により、短波帯の利用は漁業無線など一部に縮小している。 船舶に無線電信機(送信機または受信機)を取り付け、通信試験を行うようになったのは1897年(明治30年)である。 1898年(明治31年)になると、船舶無線によるビジネスが小規模ながらもはじめられた。 翌1898年7月、アイルランドで開催されたヨットレースの無線中継をダブリン・デイリー・エクスプレス社(Dublin Daily Express 1900年(明治33年)2月にオランダとの国境にあるドイツのボルクム島灯台海岸局、ボルクム・リフ灯台船無線局、北ドイツ・ロイド汽船会社の大西洋航路客船カイザー・ヴィルヘルム・デア・グロッセ号に船舶無線局を設置して公衆通信(電報)の試験を始めた[5][6]。 1900年4月25日、マルコーニは海上公衆通信の商用化を専業とする、マルコーニ国際海洋通信会社(Marconi International Marine Communication Company)を分社させた。そして1900年5月15日より上記3つの無線施設を使って世界初の公衆通信(電報サービス)をスタートさせた[7][8]。恒久施設による海上公衆通信のビジネス化はこうして達成されたのである。 1904年(明治37年)1月7日、マルコーニ国際海洋通信会社が遭難信号CQDを制定したが[9]、これは同社の社内符号であり他の無線会社には関係しない。1905年(明治38年)4月1日、ドイツ無線電信条例が施行され、その第4条に遭難信号SOSが盛り込まれた[10]。 1906年(明治39年)11月3日、第一回国際無線電信会議[11]において世界共通の遭難信号SOSが採択され、1908年(明治41年)7月1日に発効した。しかし他社とは交信しない方針のマルコーニ社は自社の社内符号CQDを1912年(明治45年)の、タイタニック号沈没事故まで使い続けた。ホワイト・スター・ライン所属のタイタニック号に船舶局を開設していたのはマルコーニ国際海洋通信会社だった。 1909年(明治42年)8月11日、クライド・ライン また前述のタイタニック号の事故の際には、同号に開設されたマルコーニ国際海洋通信会社の船舶局(呼出符号MGY)が当初CQDを使ったが、途中より国際的な遭難信号SOSも併用した[14]。 日本における船舶無線の利用に目をつけたのは海軍である。1899年(明治32年)5月12日付でイギリス公使館付武官であった川島令次郎は無線電信の研究を喚起する意見書を海軍省に送った。
概要
世界での歴史
この年の春、ロシア海軍水雷士官学校の教官アレクサンドル・ポポフは、ロシアの首都ペテルブルクの沖合にあるクロンシュタット軍港内の巡洋艦「ロシア」と「アフリカ」に無線機を設置し電波伝播試験を開始した[1]。
同年7月、マルコーニはイタリアのラ・スペツィア軍港に送信機を設置し、受信機を設置した装甲艦サン・マルティーノ(San Martino)で近海を航行しながら、イタリア政府およびイタリア海軍関係者にデモンストレーションを行った[2]。
同年11月、マルコーニはボーンマス(Bournemouth)とスワネージ(Swanage
船舶無線ビジネスの試み
海上公衆通信の開始
船舶用の遭難信号を制定
初のSOS
日本での歴史