船田 和英基本情報
国籍 日本
出身地静岡県浜松市
生年月日1942年5月5日
没年月日 (1992-05-28) 1992年5月28日(50歳没)
身長
体重181 cm
72 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション内野手
プロ入り1962年
初出場1962年10月4日
最終出場1980年10月10日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
静岡県立浜松商業高等学校
北洋水産
読売ジャイアンツ (1962 - 1965)
西鉄ライオンズ (1966 - 1971)
ヤクルトアトムズ
ヤクルトスワローズ (1972 - 1980)
コーチ歴
ヤクルトスワローズ (1981 - 1990)
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船田 和英(ふなだ かずひで、1942年5月5日 - 1992年5月28日)は、静岡県浜松市出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ。
ニックネームは「ライフルマン」[注 1]。 小学生の時、母親が勤務する会社の人から皮のスパイクを貰ったことがきっかけで野球を始める[1]。静岡県立浜松商業高等学校では1960年に夏の甲子園県予選準々決勝に進出するが、清水市商に敗れた。 北洋水産を経て、1962年のシーズン途中で読売ジャイアンツへ入団。1963年には塩原明、須藤豊らとのレギュラー争いを制し二塁手の定位置を獲得。オールスターゲームに初出場し、同年のリーグ優勝に貢献する。同年の西鉄ライオンズとの日本シリーズでは全7試合のうち5試合に先発出場し17打数4安打1打点3四死球だった。1965年、頭部に死球を受けたことで恐怖症が残った[1]。 1966年、田中久寿男との交換トレードで西鉄ライオンズへ移籍。一年目から遊撃手として活躍し、同年は初の規定打席(25位、打率.222)にも達する。1967年は故障で浜村健史にレギュラーを譲るが、翌年から三塁手として復活した。1969年のオールスターゲーム第2戦では3安打を放ち、MVPを獲得する。しかし1970年、黒い霧事件により11月末まで野球活動禁止処分を受けた。 1972年にヤクルトアトムズへ金銭トレードで移籍。ヤクルトでは内外野どこでもこなすユーティリティプレイヤーとして重宝し、1973年には通算1000試合出場を達成。1975年6月12日の広島戦にてセ・リーグ通算15000個目の盗塁を記録した。1976年には三塁手のレギュラーとなり、通算1000本安打を達成する。同年は打率.302(12位)を記録し、カムバック賞を受賞する。なお、船田もこの年から引退するまで打率は.270を下回る事は無かった。 1978年はヤクルトのリーグ優勝にも貢献し、同年6月6日の読売ジャイアンツ戦にて角三男から[2]、9月19日の中日ドラゴンズ戦で星野仙一からサヨナラホームランを打った[3]。阪急ブレーブスとの日本シリーズでは全7戦のうち6試合に二番打者として先発出場、22打数7安打4打点を記録しヤクルトの日本一に貢献した。同年の第29回NHK紅白歌合戦には応援ゲストとして登場している。1980年限りで現役を引退した。 引退後は1981年から1990年までヤクルトのコーチを務め、1991年病気療養のため名目上スカウトに異動。1992年5月28日に50歳で死去した[4]。
経歴
詳細情報
年度別打撃成績
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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