船原 長生
Chosei Funahara
船原長生(1979年)
基本情報
生誕 (1953-12-10) 1953年12月10日(70歳)
出身地 日本 兵庫県
ジャンルパンク・ロック・ロック
職業ベーシスト・映画プロデューサー
担当楽器ベース
配偶者Carolyn Boeme (1982年-1983年)
Suzi Funahara (1989年-2001年)
共同作業者プラズマティックス
船原 長生(ふなはら ちょうせい、1953年12月10日 - )は、アメリカ在住の音楽家、映画監督、映画プロデューサー。 兵庫県で生まれ、日本大学芸術学部映画学科卒業後、NYU(ニューヨーク大学)大学院映画学科に学ぶ。大学院在学中に、パンク・ロック・バンドのカルト的な存在となったプラズマティックスのベーシストとしてニューヨークでミュージシャン・デビュー。その後、映画制作に移行し、1992年、村上龍原作の映画『トパーズ (Tokyo Decadence)』のプロデューサー、サンダンス映画祭でグランプリを受賞した『イン・ザ・スープ』(アレクサンダー・ロックウェル監督)のエグゼクティブ・プロデューサーなどを務めた。 1969年、兵庫県立加古川東高等学校入学すると、高校在学中から、後に各分野の文化人として名を成した同世代の人物たちとの交流が始まった。後にコピーライターとなった中島らも、フランス文学者・作家・翻訳家となった鈴木創士とは三ノ宮で知り合い、ラジオ・パーソナリティとなった谷五郎とは同級生であった。中島によれば、中島と共に大阪芸大を受験し両者合格したものの、構内に立てられていた『まむしに注意』の看板に驚いた船原は入学を取りやめたのだという。1972年、日本大学藝術学部映画学科に入学し、大学3年次にニューヨーク州北部にあるシラキューズ大学に留学した。大学4年のときに沖縄で沖縄海洋博が開かれると、通産省の管轄であった海洋文化館に勤務し、三木首相付きの同時通訳を務めるかたわら、現てぃんがーら・シアターが当時のハイテクを駆使して運営したコンピューター制御のマルチ映像で、プログラマー兼オペレーターを担当した。1976年、日本大学芸術学部映画学科を卒業すると再び渡米し、サンフランシスコ・アカデミー・オブ・アート
人物
略歴
学生時代
ニューヨークで結成されたプラズマティックスは、1970年代終わりから1980年代にかけて、ハードコアなステージで人気を獲得し、カルト的存在のパンク・ロック・バンドとして一斉を風靡した。船原はそのプラズマティックスの結成オリジナル・メンバーであり、1978年、全米ツアーに参加、翌年はヨーロッパ・ツアーにも参加した。しかし、アナーキーなステージ演出が「危険すぎる」という理由で、1980年8月8日のイギリス・デビュー・コンサートが中止になるというハプニングもあった。
1970年代から1980年代にかけて、世界で活躍する日本人ベーシストとしては、ロッド・スチュワートと活動していた山内テツがおり、当時は「ロンドンのテツか、ニューヨークのチョウセイか」と言われるほどで、船原の人気も、ニューヨークのストリートを歩いていると突然サインを求められるほどであったという。ミュージシャンとして成功した船原は、米国永住権(いわゆるグリーンカード)を獲得。その後、船原の目標は学生時代から映画製作にあり、1980年、人気絶頂だったプラズマティックスを脱退した。 ミュージシャンを廃業した翌年、集英社ニューヨーク支局の支局員を務め、それをきっかけに村上龍、北方謙三との交流が始まった。長期にわたる交流の中で、彼らの小説の登場人物のモデルにもなった。 1982年、ブロードウェイ・ミュージカルの仕事を始め、『 ⇒Rock 'N Roll! The First 5,000 Years』のフィナーレを作曲、日本人初のブロードウェイ・ミュージカル作曲者となった。 翌1983年、ミュージック・ビデオ の制作会社を設立。その1年後には米国CBSレコード(現ソニー・ミュージックエンタテインメント)とソロ・アーティスト契約が成立すると共に、MV監督としての仕事も始まった。
仕事
ミュージック・ビジネス