船乗り猫(ふなのりねこ、英語: Ship's cat)は、船で飼われる猫である。船乗り猫は、古代から、多くの商船(英語版)や探検船(英語版)、海軍艦艇にとってありふれた存在であった。猫は様々な理由、特にネズミを捕まえるため船に乗せられてきた。ネズミは船のロープや木製品、電線を噛んで傷つける。また、乗組員の食料を食べ、穀物などの積荷に経済的な被害を与えた。そして長期間海上にいる船にとって危険な病気の媒介者でもあった。ネズミノミ(英語版)はペストを媒介し、船のネズミは黒死病の主な拡大要因であると信じられていた。
猫には齧歯動物を攻撃し殺す本能がある[1]。そして、新しい環境に適応する生まれつきの能力が船上生活に適していた。加えて、家を離れた船乗りたちに、仲間付き合いや家族、安心、友情の意識を与えた。 猫の家畜化は、約9,000年前の近東の農場にさかのぼると信じられている。古代エジプト人は川岸沿いの茂みにいる鳥を捕まえるため、猫をナイルボート 猫は神として崇敬され
歴史
猫と迷信
猫には神秘的な能力があり、天候を変える力があると信じられた[8]。イギリスでは黒猫を乗せると縁起が良いとされ[9]、漁師の妻が黒猫を飼う地域もあった[8]。猫が船上で船乗りに近づけば幸運の印、途中で止まったり、後ずさりするなら不幸の印と信じられた。猫がその尻尾に蓄えた魔力で嵐を呼ぶことができるという俗信も良く知られていた。もし船乗り猫が水中に落ちたり投げられたりしたなら、船を沈めるような激しい嵐を呼び、船が生き延びることができても9年間は呪われると考えられた。このほかにも、猫が毛並みに逆らって毛を舐めたなら雹や嵐に、くしゃみをしたら雨、元気に駆け回るなら風が吹くという俗信もあった。
日本においても、昔は必ず猫を船で飼った。猫が眠れば海が穏やかに、騒げば時化になり、また、荒天で方向が分からなくなっても猫は北を向くので磁石代わりになる、と信じられた。特に貴重な三毛猫のオスを飼っていれば航海は絶対安全とされ、競って入手しようとした[10]。
これらの説のいくつかは事実に基づく。とても敏感な内耳を持つ猫は、天候のわずかな変化に気づき、また落下時に真っすぐ立つことができる。悪天候の前兆である気圧の低下は、しばしば猫を神経質や落ち着かなくさせる[11]。
また、多指症の猫は害獣を捕まえるのがうまく、追加の指により海上でバランスを取りやすいと考えられ[12]、船乗り猫として扱う地域もある[13]。 船乗り猫が広まり、多くの著名な船乗り達によって猫の記録が書かれた。第二次世界大戦が勃発し、マスコミによる報道と、世界中の海軍が活発的であったこともまた、多くの船乗り猫を有名にした[14]。
有名な船乗り猫
ブラッキー駆逐艦マクドゥーガル
ブラッキー(Blackie)は、イギリス海軍の戦艦プリンス・オブ・ウェールズの船乗り猫である。第二次世界大戦中、1941年8月に、密かにアメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルトと数日間会うため、イギリス首相ウィンストン・チャーチルをプリンス・オブ・ウェールズがニューファンドランドのアルジェンシャ海軍基地(英語版)へ運んだ後、世界的な名声を得た。この会談は大西洋憲章の宣言に結び付いたが、チャーチルがプリンス・オブ・ウェールズを下船しようとしたとき、ブラッキーが近づいた。チャーチルは立ち止まってブラッキーに別れの挨拶をし、その瞬間の写真が全世界に報じられた。この訪問の成功に敬意を表して、ブラッキーはチャーチルに改名された[15]。同年12月にプリンス・オブ・ウェールズがマレー沖海戦で大日本帝国海軍航空隊に沈められたときブラッキーは生き残り、生存者とともにシンガポールへ連れていかれた。翌年イギリス軍がシンガポールから撤退した際にブラッキーは見つからず、その後の消息は不明である[16]。 カモフラージュ(Camouflage)は、第二次世界大戦中の太平洋戦線におけるアメリカ沿岸警備隊の戦車揚陸艦の船乗り猫である。カモフラージュは艦上で敵の曳光弾を追いかけることで知られていた[17]。 チブレイ(Chibley)は、トールシップピクトン・キャッスル
カモフラージュ
チブレイ
コンボイハーマイオニーのハンモックで眠るコンボイ。
コンボイ(Convoy)はイギリス海軍の軽巡洋艦ハーマイオニーの船乗り猫である。幾度も輸送船団護衛(英語版)の船に乗ったことから、その名前が付けられた[19]。コンボイは船員名簿に記載され、眠るための小さなハンモックを含め完全装備が与えられた。コンボイは、1942年6月16日、ハーマイオニーがドイツ軍潜水艦U-205(英語版)の魚雷攻撃により沈没したとき戦死した[14]。 エミー(Emmy)は客船エンプレス・オブ・アイルランドの船乗り猫である。トラネコのエミーは航海には必ず乗っていた。しかし1914年5月28日、ケベック停泊中にエミーは船から逃走した。船員がエミーを船に戻したが、自分の子猫を置き去りにして再びいなくなった。エンプレス・オブ・アイルランドはエミーを乗せずに出港したが、悪い予兆であった[20]。翌朝早く、エンプレス・オブ・アイルランドはセントローレンス川河口を霧の中を航行中に石炭船ストールスタッドと衝突。すぐに沈没し、1,000人以上が死亡した。 フェリックス(Felix)は、1957年に、第二次世界大戦後のイギリスとアメリカの連帯の象徴として、イギリスのデヴォンからアメリカ合衆国マサチューセッツ州プリマスまで航海したメイフラワー2世号
エミー
フェリックス