般若寺
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「般若寺」のその他の用法については「般若寺 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

般若寺

コスモスと本堂
所在地奈良県奈良市般若寺町221
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度42分0.22秒 東経135度50分10.38秒 / 北緯34.7000611度 東経135.8362167度 / 34.7000611; 135.8362167座標: 北緯34度42分0.22秒 東経135度50分10.38秒 / 北緯34.7000611度 東経135.8362167度 / 34.7000611; 135.8362167
山号法性山
宗派真言律宗
寺格定額寺
関東祈祷所
本尊文殊菩薩重要文化財
創建年伝・舒明天皇元年(629年
開山伝・慧灌
正式名法性山般若寺
法性山般若律寺
別称コスモス寺
札所等関西花の寺二十五霊場第17番
西国薬師四十九霊場第3番
大和北部八十八ヶ所霊場第15番
文化財楼門(国宝
十三重石塔、経蔵、銅造薬師如来立像ほか(重要文化財)
公式サイト ⇒般若寺
法人番号6150005000363
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般若寺経蔵(左)と十三重石塔(右)、共に重要文化財

般若寺(はんにゃじ)は、奈良県奈良市般若寺町にある真言律宗寺院山号は法性山。本尊文殊菩薩コスモス寺の名で知られる。
歴史

般若寺は東大寺大仏殿正倉院の北方、奈良坂と呼ばれる登り坂を登りきった地点に位置する。般若寺楼門前を南北に通る道は「京街道」と呼ばれ、大和国奈良県)と山城国京都府)を結ぶ、古代以来重要な道であった。この道はまた、平城京の東端を南北に通っていた東七坊大路(東大寺と興福寺の境をなす)の延長でもある。
創建

般若寺の創建事情や時期については正史に記載がなく、創立者についても諸説あり、正確なところは不明である。ただし、般若寺の境内からは奈良時代の古瓦が出土しており、奈良時代からこの地に寺院が存在していたことは確かである。

寺伝では舒明天皇元年(629年)、高句麗の僧・慧灌の創建とされ、天平7年(735年)、聖武天皇が伽藍を建立し、十三重石塔を建てて天皇自筆の大般若経を安置したというが、これらを裏付ける史料はない。

別の伝承では白雉5年(654年)、蘇我日向孝徳天皇の病気平癒のため創建したともいう(『上宮聖徳法王帝説』裏書)。

鎌倉時代文永4年(1267年)、当時の本尊・文殊菩薩像を開眼供養した際の願文(がんもん)では、「般若寺は聖武天皇が創建し、平安時代に僧観賢によって再興された」とする説を採用している。しかし、観賢854年 – 925年)が関与した「般若寺」は山城国(現・京都市右京区鳴滝般若寺町)にあった寺であり、上記の説は同名別寺院を混同したものである。この、観賢再興説が誤りであるという点は、すでに江戸時代享保20年(1735年)刊の『奈良坊目拙解』(村井古道著)で指摘されている。

信頼できる史料における「般若寺」の初出は、天平14年(742年)10月3日付の「金光明寺写経所牒」(正倉院文書)であるとされている。ただし、これについても、今の奈良県香芝市にあった片岡寺(別名般若寺)を指すとみる説もある(なお、同市の般若院を片岡寺の尼寺を引き継いだ寺とする説もある。また、蘇我日向が建てた般若寺を片岡寺に充てる東野治之の説もある[1])。この事例を外した場合には、『日本三代実録貞観5年(863年)9月26日条に登場する「添上郡般若寺」が初出ということになる[2]

その後平安時代末頃までの歴史はあまり明らかでない。治承4年(1180年)、平重衡による南都焼討の際には、東大寺、興福寺などとともに般若寺も焼け落ち、その後しばらくは廃寺同然となっていたようである。
鎌倉時代

廃寺同然となっていた般若寺は、鎌倉時代に入って再興が進められた。寺のシンボルとも言える十三重石塔は僧・良恵(りょうえ)らによって建立され、建長5年(1253年)頃までに完成した。


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