Airline Deregulation Act
正式題名An Act to amend the Federal Aviation Act of 1958, to , develop, and attain an air transportation system which relies on competitive market forces to determine the quality, variety, and price of air services, and for other purposes.
制定議会アメリカ合衆国第95議会
航空規制緩和法 (こうくうきせいかんわほう、英語: Airline Deregulation Act、ADA)は、1978年に制定されたアメリカ合衆国の連邦法である。日本語での呼称は航空会社規制緩和法[1]、民間航空規制緩和法[2]などと定まっておらず、Deregulation を日本語発音した「デレギュレーション」法[3]とも呼ばれる。 1978年にジミー・カーター政権により、これまで連邦政府の規制により守られていたアメリカの航空業界を規制緩和し、運賃や路線、新規航空会社の市場参入などに関する連邦政府による統制を撤廃したものである。 これにより、商業航空業界に自由市場が導入され、航空便数の大幅な増加・運賃の引き下げ・輸送量の増加・航空会社の再編がもたらされた。規制当局であった民間航空委員会[4](CAB)の権限も段階的に廃止されたが、連邦航空局(FAA)の航空安全に関する規制権限は全面的に低下しなかった。 1938年以来、CABは国内の州間航空輸送ルートを公共事業としてすべて規制し、国際線にも就航できる航空会社を限定し、また運賃・ルート・スケジュールを設定していた。しかし、州内路線のみを運航する航空会社は、CABの規制を受けず、代わりに運航する州の州政府による規制を受けていた。一般にCABは航空旅行を促進する目的で補助金を出して短距離路線の運賃を抑えており、その財源は引き上げられた長距離路線の運賃によってもたらされるものであった。またCAB は、合理的な収益率が確保できるよう、航空会社を保護していた。 航空会社は新しい路線や運賃の変更を申請しても長い期間待たされるうえに、承認されないことが多く、官僚的・独善的というのがCABの評判であった。例えば、ワールド・エアウェイズは1967年にニューヨーク-ロサンゼルス間の低運賃路線の開設を申請したが、CABはこの申請の検討に6年以上をかけた挙げ句に、記録が「古い」という理由で却下している。コンチネンタル航空は8年後にデンバー-サンディエゴ間の運航を開始したが、これは控訴裁判所がCABに申請を承認するよう命じたからに過ぎない[5]。 また国際線はCABによって就航できる路線は航空会社によって厳格に分けられており、民間航空が世界に広がった第二次世界大戦後も、戦前同様に世界中に自由に路線を張り巡らせるのはパンアメリカン航空のみで、1970年代まではトランス・ワールド航空とアメリカン・オーバーシーズ航空はヨーロッパと中東路線のみ、ノースウエスト航空は太平洋とアジア路線のみ、ブラニフ航空は南米路線のみ、ユナイテッド航空はカナダ路線のみに限定されていた。また、その代わりにパンアメリカン航空やノースウエスト航空、トランス・ワールド航空などは、国内路線への進出は厳しく制限されていた。 この硬直したシステムは、1970年代に大きな圧力にさらされた。1973年の石油危機とスタグフレーションは経済環境を激変させ、ボーイング747やマクドネル・ダグラスDC-10などのワイドボディ機の技術の進歩などもあった。これまで利益が事実上保証されていたパンアメリカン航空やユナイテッド航空、トランス・ワールド航空をはじめとする大手航空会社の多くはこの硬直的なシステムを(部分的にも)支持していたが、高騰した運賃の支払いを余儀なくされた乗客たちは反対し、航空サービスにかつてないほどの高額な補助金を出す地域社会と連帯した。 合衆国議会は、長期的には航空輸送が国内の鉄道[注 1]と同様に追随して問題に直面することを懸念するようになった。 主要な経済学者は、規制が非効率とコストの上昇につながると数十年前から主張していた。カーター政権は業界とその顧客は恩恵を受けられると主張し、新規参入や運賃に対する規制の撤廃、並びに、路線設定やハブ都市乗り入れに対する規制の縮小に舵が切られた[7]。 1970年から1971年にかけて、ニクソン政権の経済諮問委員は、合衆国司法省反トラスト部などとともに、鉄道・トラック輸送における価格操作や参入障壁を軽減するための法案を提出した。この構想はフォード政権で進められ、1975年には独占禁止法を管轄する上院司法委員会による航空会社の規制緩和に関するヒアリングが開始された。この公聴会はエドワード・ケネディ上院議員が中心となって行われた。 この委員会は、本来の管轄である商務省航空小委員会よりも親しみやすいものとみなされ、司法委員会の主導はフォード政権による支持を受けた。1977年、カーター大統領はコーネル大学の経済学部教授アルフレッド・E・カーン 1978年2月6日にネバダ州の上院議員ハワード・キャノン
概要
歴史
ADAの要旨
同法の明文化された目標には、次のようなものがあった。
商業航空における最優先事項としての安全性の維持。
航空輸送サービスの提供は最大限競争を旨とすること。
セカンダリー(非主要)空港または衛星空港を活用した主要都市部での航空サービスの奨励。
1 社以上の航空会社が不当に価格を上げたり、サービスを縮小したり、競争を排除したりするような不合理な寡占を避けること。
新規航空会社の航空輸送市場への参入促進、既存航空会社のさらなる市場参入の促進、小規模航空会社の継続的な強化を図る。
同法では、1981年12月31日までに国内線と新サービスの制限を完全に撤廃し、1983年1月1日までに国内線運賃の規制をすべて終了させることで、4年間で航空会社の運航に対するさまざまな制限を撤廃することが企図されていた。実際には、変更はそれよりもさらに急速に行われた。
ADAの定めに基づき以下が行われた
運賃を設定するCABの権限は徐々に撤廃された。
CABは様々な要求の処理を迅速化するよう求められた。
新しい航空会社の設立基準が自由化された。
航空会社には、競合他社の十分に利用していない路線やローカルサービスの補助金を受けている路線を引き継ぐことが認められた。
アメリカ資本の国際航空会社は国内線サービスを提供することが認められた。
「公共の利便性」を理由とする路線の差止めには、CABに証明責任が課せられた。
CABはチャーター便に体する新たな規制を導入することを禁止された。
郵便物輸送に対する特定補助金は1986年1月1日をもって終了し、不可欠路線運航サービス(英語版)(EAS)の補助金プログラムは制定から10年後に終了した[注 3]。