航空憲法
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45/47体制(よんごーよんななたいせい)とは、1972年(昭和47年)7月に発動された航空会社の事業割当を決めた日本の産業保護政策通称。別名「航空憲法(こうくうけんぽう)」とも呼ばれる。

「45/47体制」と呼ばれた理由は、1970年(昭和45年)に閣議で了解され、1972年(昭和47年)に運輸大臣通達が出されたことに由来する。この「45/47体制」は、その航空会社に対する拘束力の強さゆえに、比喩的に「航空憲法」とも呼ばれた。
目次

1 体制構築の経緯

1.1 4社体制への集約

1.2 政府と日航頼りの全日空

1.3 東亜国内航空の成立

1.4 全日空と東亜国内航空の保護育成


2 概要

2.1 3社棲み分け

2.2 全日空疑獄


3 終焉

4 評価

5 脚注

6 関連項目

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体制構築の経緯
4社体制への集約日本航空のボーイング747型機全日空のボーイング737型機東亜国内航空(日本エアシステム)の日本航空機製造YS-11型機

第二次世界大戦後の1951年に、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)による航空活動禁止が解禁されると、日本国内各地に続々と航空会社が誕生した。

しかし、産業として未成熟であったこともあり運輸省(現国土交通省)の指導のもとで再編成を繰り返し、高度成長期1960年代中盤には、日本航空、日本ヘリコプターと極東航空が合併して設立された全日本空輸富士航空日東航空などが合併して設立された日本国内航空東亜航空の4社に集約されていた。
政府と日航頼りの全日空

しかし全日空は、1966年に起こした羽田空港沖でのボーイング727型機の墜落事故や、松山沖墜落事故をはじめとする一連の連続墜落事故で、全日空の1機あたりの整備員の数が日本航空の3分の1に満たないこと[1]をはじめとする整備や安全運航面における不備を指摘された上に、同社は事故を受けた営業面での打撃や遺族への慰謝料支払いによる出費[2]により経営面で危機に立たされた。

その後全日空は、運輸省とその指導を受けた日本航空の主導で経営再建がすすめられ、1967年には経営立て直しのために日本航空が全日空の第2位の大株主になり、さらに日本航空から派遣された大庭哲夫副社長(その後1969年5月に社長に就任)[3]の下で、整備や運航安全面の見直しと拡充を進めた。この様に政府と日本航空からの全面的支援を受け、事実上一部国営化された全日空は、その後辛くも経営危機状態からの脱却を進めることが出来るようになった。
東亜国内航空の成立

国内第3位ではあるものの、上位2社に比べ経営、運航規模の小さい日本国内航空と、大阪を中心に運航していた事実上の地域航空会社である東亜航空の両社は、経営状態が安定しないことを受けて整備や安全運航面が十分でない状況が続いたため、日本航空からの整備や運航支援を受けることで辛くも運航を続けるという状況が続いていた[4]

この様な状況を打開するために、運輸省の指導を受けた日本国内航空と東亜航空は、1970年に合併して東亜国内航空となり、経営及び運航状況の強化が図られることとになった。
全日空と東亜国内航空の保護育成

政府と日本航空の支援による全日空の経営再建と併せて、東亜国内航空の成立により3社体制が確立したものの、無理な拡張経営や価格競争などにより全日空と東亜国内航空の経営及び運航体制が再び苦境に陥ることを避けるために、政府は国内外の路線や運賃を政府によって調整することで競争を抑制し、航空業界の安定的な発展、共存共栄を図る観点から国内航空業界(直接的には全日空と東亜国内航空)を保護育成しようと考えた。
概要
3社棲み分け

この政策によって、日本航空は国際線の一元的運航と国内幹線の運航、全日空は国内幹線とローカル線、国際チャーター便の運航、東亜航空と日本国内航空は合併して東亜国内航空(後の日本エアシステム)となり国内ローカル線の運航を担当し将来的には幹線に参入する、という体制が確立した。これによって日本の航空市場における事業分野の棲み分けが定められた。
全日空疑獄

なお、「45/47体制」が施行される中で、日本航空から派遣された大庭社長を怪文書騒動で追い落とし社長となった、運輸省事務次官からの天下り役員である若狭得治社長が、1976年に表面化した「ロッキード事件」においてロッキード社から得た工作資金の一部の40万ドルを「裏金」として処理し、さらにこの中から、「45/47体制」下における日本航空の準幹線への進出阻止や全日空が就航する地方空港の国費による整備、国際チャーター便枠の拡大などの全日空に有利な政策を実現させ、事業拡大を図るために「航空族」の政治家や運輸官僚へ渡す賄賂をねん出していたことが明らかになった[5]

この証言を受けて、7月7日に全日空の経営管理室長が外為法違反で逮捕され、続く8日には若狭社長が外為法違反と偽証罪で逮捕された。9日には、渡辺尚次副社長が偽証罪で逮捕され、さらに13日には3名の幹部が逮捕された。この一連の全日空による政治家と官僚に対する贈賄事件は「全日空疑獄」と呼ばれることになった[6]
終焉

「45/47体制」が発足してから10年ほどで、その後も続いた経済成長もあり日本の航空産業は順調に成長し、アメリカイギリスに次ぐ規模となった。しかし、1978年(昭和53年)にアメリカで規制緩和政策が始まり、特に路線参入の自由化と政府の航空会社への保護、規制の廃止による厳しい競争の中で運賃低下などが実現していくと、これが「45/47体制」に守られた日本の航空界の高運賃体質に対する批判のもととなった。

1985年(昭和60年)に政府は「45/47体制」の見直しを決定し、新航空政策を運輸政策審議会に諮問した。運政審は翌年に「今後の航空企業の運営体制のあり方について」という新航空政策を答申した。ここで今後は「安全運航の確保を基本としつつ、企業間の競争を通じて、利用者の要請に応じたサービスの向上、経営基盤の強化、国際競争力の強化などの実現を目指す」こととした。日本の航空政策が厳しい規制主義にあった過去から、規制緩和、競争促進へと舵を切ることとなった。

これにより、全日空と日本エアシステムの国際線への参入、国内主要線の複数社参入が認められ、また日本航空の完全民営化と準幹線への参入も決定し、「45/47体制」は終焉した。現在の幅運賃制度の導入、スカイマーク北海道国際航空などの新規参入会社支援などの各種政策も、基本的にはこの流れに基づいており、2002年の日本航空と日本エアシステムの合併も、この政策変換の影響を受けてのものである。
評価

第二次世界大戦における敗戦により壊滅状態となり、ゼロから出発した航空業界は、「45/47体制」以前では航空会社の再編成が頻繁に繰り返された。その度に運輸省はそれらの保護、育成を目的とした政策を打ち出してきた。この政策転換の繰り返しの反省を踏まえ、国が業界全体を保護育成する目的を明らかにしたのがこの体制であった。需給調整の名の下に新規参入を規制し、運賃を調整し、各航空会社の事業範囲を固定したことは、長らく幼稚産業から脱皮できなかった航空産業の発展に大きく寄与したことは事実である。

しかし「45/47体制」は、閣議了解及び通達という、国会の議決を経ることのない政府の政策として決定されたため、利用者である国民の意思を反映する仕組みがなかった。さらに運輸省には、航空業界がどの程度まで発展すれば規制を緩和し市場競争に委ねるか、という将来展望が欠けていた。


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