舟越保武
[Wikipedia|▼Menu]
舟越保武

舟越 保武(ふなこし やすたけ、1912年12月7日 - 2002年2月5日)は、日本の彫刻家佐藤忠良と共に戦後日本を代表する彫刻家新制作協会彫刻部創立会員。東京藝術大学名誉教授。文化学院出身。直彫りによる石彫の第一人者とされ[1]、日本でまだ石彫が珍しかった時代に、大理石や砂岩を使った作品に取り組み、独自のスタイルを築いた[2]

画家の妻道子との間に子供6人。次男の舟越桂や三男の舟越直木も彫刻家として活躍。娘の末盛千枝子(末盛憲彦の妻)は、児童文学編集者で「すえもりブックス」経営者[3]
生涯

1912年岩手県二戸郡一戸町[1]小鳥谷生まれ。父親が熱心なカトリック信者だった[4]。県立盛岡中学校(現岩手県立盛岡第一高等学校)在学中[1]、(同期に松本俊介[1])に高村光太郎訳の「ロダンの言葉」に感銘を受け、彫刻家を志す[4]

1939年、東京美術学校(後の東京藝術大学)彫刻科を卒業[5]。このとき出会った佐藤忠良とは終生の友情を培うことになり、共に戦後の日本彫刻界を牽引していく。同年、新制作派協会彫刻部創立に参加して会員となる[5]。この頃から大理石彫刻を始める[5]1940年、盛岡に疎開。深沢省三深沢紅子夫妻と共に岩手県美術研究所で後輩の指導にもあたった。1950年、第14回新制作派展出品作「アザレア」は文部省買い上げとなった[5]。同年、長男が生まれて間もなく急死したのを機に、家族全員で洗礼を受けてカトリックに帰依[5]キリスト教信仰やキリシタンの受難を題材とした制作が増える。1967年から東京芸術大学教授を務め[5]、1980年定年退官[5]。1981年多摩美術大学教授に就任[5]、1983年定年退官[5]。1986年東京芸術大学名誉教授[5]1987年、脳梗塞で倒れ[5]、右半身が不自由になったが、すぐにリハビリを開始し、死の直前まで左手で創作を続けた[5]1999年文化功労者[5]2002年2月5日多臓器不全で死去[5]。享年89歳。墓所は府中市府中カトリック墓地。
主な作品と受賞歴


たつこ像」1968年制作(秋田県仙北市田沢湖)「ペトロ岐部像」1965年制作(大分県国東市ペトロ・カスイ岐部記念公園)


1962年 「長崎26殉教者記念像」で高村光太郎賞[5]

1972年 島原の乱に着想を得た「原の城」で中原悌二郎賞[5]

1973年 「原の城」でパウロ6世より大聖グレゴリオ騎士団長勲章受章[5]

1975年 「病醜のダミアン」(ダミアン神父をモデルにした作品。)[5]

1977年 「道東の四季?春?」(釧路市幣舞橋)で長谷川仁記念賞[5]

1978年 芸術選奨文部大臣賞[5]

1983年 エッセイ『巨岩と花びら』で日本エッセイスト・クラブ賞受賞。

1984年 勲四等旭日小綬章受章


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:18 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef