舟渡
町丁
荒川河川敷緑地の戸田橋(舟渡三丁目)
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度47分41秒 東経139度41分05秒 / 北緯35.794783度 東経139.684656度 / 35.794783; 139.684656
国 日本
都道府県 東京
特別区 板橋区
地域志村地域
人口情報(2024年(令和6年)3月31日現在[1])
人口9,612 人
世帯数5,299 世帯
面積([2])
1.147968525 km²
人口密度8373.05 人/km²
郵便番号174-0041[3]
市外局番03(東京MA)[4]
ナンバープレート板橋
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舟渡(ふなど)は、東京都板橋区の町名[5][6]。現行行政地名は舟渡一丁目から四丁目。全域で住居表示が実施されている。 板橋区北部(最北端を含む)に位置する。北端で荒川 、南端で新河岸川に接する。北で荒川を隔てて埼玉県戸田市戸田公園および川岸、東で北区浮間、南で新河岸川を隔てて坂下、東坂下、蓮根および高島平、西で新河岸と隣接する。北辺をもって東京都 - 埼玉県境、東辺をもって板橋区 - 北区境を形成する。町域の中央部を国道17号(中山道)、東日本旅客鉄道(JR東日本)東北新幹線および埼京線(東北本線別線)が南北に通じている。町域は工場が多く、近年は物流業・運送業の拠点施設も作られている。 荒川低地の沖積層から成り、全域がほぼ平坦である。かつての荒川は川幅が狭く、各所で蛇行がみられ、現在の浮間ヶ池を通り、岩淵水門付近で現在の隅田川に合流していた。大雨による氾濫がしばしば起こり、特に1910年8月11日の荒川大洪水では、荒川中下流域は甚大な損害を受けた[7]。これを受けて荒川の大規模改修工事が行われ、流路がほぼ直線に変更された。[7]荒川旧流路の一部は浮間ヶ池(舟渡二丁目)や舟渡四丁目に池として残されていて、「おいてき堀」と呼ばれている。 住宅地の地価は、2024年(令和6年)1月1日の公示地価によれば、舟渡2-11-3の地点で38万2000円/m2となっている[8]。 1871年の廃藩置県実施前は武蔵国豊島郡蓮沼村(後に分村により上蓮沼村)および根葉村。一帯は荒川が複雑に屈曲する、葦や萱の生い茂る低湿地の原野だった。 1944年の(旧)舟渡一丁目・二丁目発足以前の地名変遷については蓮根を参照。 豊島郡蓮沼村の小名による[11]。この小名の名称は戸田橋が架かる以前、戸田の渡しの渡船場が設置されていたことに由来する。渡船場の位置に関しては、現在の戸田橋の位置とは異なっていたとする説もある。 2024年(令和6年)3月31日現在(板橋区発表)の世帯数と人口は以下の通りである[1]。 丁目世帯数人口 国勢調査による人口の推移。 人口推移年人口 国勢調査による世帯数の推移。 世帯数推移年世帯数
地理
地形
河川
荒川
新河岸川
池沼
浮間ヶ池:荒川の旧河道に相当し、浮間公園の一部となっている。
地価
歴史
沿革
16世紀末ごろ(安土桃山時代):中山道で戸田の渡しの運行が始まったと伝えられる。
1602年(慶長7年):徳川家康の命により、中山道が整備される。この時期に、戸田の渡しの渡船場が整備されたと考えられる。
1717年(享保2年):徳川吉宗将軍による鷹狩再開の命により、当地を含む志村の原・徳丸ヶ原地域が「戸田筋」に指定される。
1718年(享保3年):徳川吉宗が戸田筋で鷹狩を行う。
初代戸田橋(1875年)
1772年(安永元年):荒川舟運の拠点として戸田河岸場が設置される。
1871年(明治4年)11月 - 4丁目を除く大半が浦和県(現埼玉県)から東京府に編入。
1875年(明治8年)5月:中山道に初代の戸田橋が架けられる。木製の橋で、通行料を徴収していた。橋の完成に伴い、戸田の渡しは廃止された。
1910年(明治43年)8月:荒川大洪水で荒川中下流域に大規模な氾濫が発生する。
1912年(大正元年):戸田橋改築(木製)、通行料無料化。
1921年(大正10年):荒川流域改修工事の一環として、従来、現在の埼玉県和光市新倉で荒川に合流していた新河岸川を、現在の東京都北区志茂の岩淵水門での合流につけかえるため、現在の舟渡地域を通過する流路開削工事が始まる。
1923年(大正12年):王子(王志とも)乗合自動車商会(後に中山道乗合自動車を経て、戦後は国際興業バスに統合)が、王子駅 - 志村戸田橋間の路線バス事業を開始。現在の町域に志村戸田橋停留所が設置される。
中山道乗合自動車時代に戸田橋を渡り、埼玉県北足立郡戸田村まで延長された。国際興業バスに統合されてからは1960年代に旧105系統(都営バスと共同運行):浦和駅前 - 蕨操車場 - 志村橋 - 巣鴨駅 - 東大赤門前 - 東京駅丸の内北口 - 築地五丁目、1970年代 - 1980年代に蕨56系統:蕨駅西口 - 戸田橋 - 高島平操車場などの路線が運行されていた。
1924年(大正13年):大水により戸田橋が破損する。
1925年(大正14年):1923年9月1日に発生した関東大震災後の帝都復興計画に伴い、東京都市計画区域内における市街地建築物法による住居・商業・工業地域の指定変更が行われる。北豊島郡志村全域が工業地域内甲種特別地区に指定され、化学薬品工場・危険物取扱工場の設立が可能になる。[9][10]
1930年(昭和5年):荒川改修工事が完成する。
1932年(昭和7年)12月:戸田橋改築、鉄製の橋となる。
1933年(昭和8年):中山道拡幅・新道(国道17号)建設工事が行われる。新河岸川開削工事が完成する。
1944年(昭和19年):志村蓮根町の新河岸川以北地域が(旧)舟渡一・二丁目に再編される。
1950年(昭和25年)4月:埼玉県北足立郡戸田町(現・戸田市)の一部約0.2km2が板橋区に編入され、(旧)舟渡三丁目となる(現在の舟渡四丁目の一部、戸田葬祭場付近)。
1951年(昭和26年)8月:戸田町との境界確定を記念し、戸田橋花火大会(現・いたばし花火大会)が開催される。1965年 - 1972年の中断、2011年の東日本大震災による中止、2020年から2022年の新型コロナウイルス感染症対策による中止を経て継続開催。
1953年(昭和28年)9月:(旧)舟渡三丁目に板橋区立志村第六小学校の分校(現・板橋区立舟渡小学校)が開校する。
1956年(昭和31年)4月:舟渡保育園開園。
1960年(昭和35年)4月:板橋高等職業訓練校(現・東京都立中央・城北職業能力開発センター板橋校)開校。
1961年(昭和36年):舟渡運動場開設。
1964年(昭和39年)10月7日:第18回オリンピック東京大会の聖火が戸田橋を渡り東京都入りする。
1966年(昭和41年)5月:住居表示実施により、(旧)舟渡一?三丁目および志村西台町の一部地域が(新)舟渡一?四丁目に再編される。
1967年(昭和42年)7月:都立浮間公園開園。
1969年(昭和44年)9月:都営バスが戸田橋を渡り東京都と埼玉県にまたがる路線(蕨操車場 - 東京駅丸の内北口)を廃止、国際興業バス単独運行となる。
1978年(昭和53年):戸田橋改築。
1985年(昭和60年)3月14日:国鉄東北新幹線上野 - 大宮間開通、町域を経由する。
1985年(昭和60年)9月30日:「通勤新線」として国鉄が東北新幹線と同時に建設していた埼京線(東北本線別線)赤羽 - 大宮間開通、浮間舟渡駅開業。
1990年(平成2年):国際興業バスが、戸田橋を渡り東京都と埼玉県にまたがる路線を全廃する。
1998年(平成10年)5月: 荒川河川敷において、第1回東京荒川市民マラソンが開催される。
2002年(平成14年)7月:浮間舟渡駅前再開発ビル「アイ・タワー」(地上30階建)完成、医療法人社団明芳会板橋中央総合病院附属アイ・タワークリニック、板橋区立にりんそう保育園、板橋区立企業活性化センター開設。
地名の由来
世帯数と人口
舟渡一丁目1,906世帯3,358人
舟渡二丁目2,307世帯4,370人
舟渡三丁目984世帯1,691人
舟渡四丁目102世帯193人
計5,299世帯9,612人
人口の変遷
1995年(平成7年)[12]6,914
2000年(平成12年)[13]6,876
2005年(平成17年)[14]7,553
2010年(平成22年)[15]8,420
2015年(平成27年)[16]9,128
2020年(令和2年)[17]9,581
世帯数の変遷
1995年(平成7年)[12]2,880
2000年(平成12年)[13]3,047
2005年(平成17年)[14]3,356
2010年(平成22年)[15]4,069
2015年(平成27年)[16]4,306
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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