舟木一夫
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舟木 一夫
『映画情報』1967年2月号より
基本情報
出生名上田 成幸
別名高峰 雄作
里中 さとる
岩鬼 まさみ
すずき じろう
生誕 (1944-12-12) 1944年12月12日(79歳)
出身地 日本 愛知県中島郡萩原町(現・一宮市
学歴自由ヶ丘学園高等学校
ジャンル演歌歌謡曲J-POP
職業歌手タレント
担当楽器
活動期間1961年 -
レーベル日本コロムビア
事務所ホリプロダクション
第一共栄プロダクション→
舟木音楽事務所→
アイエス(業務提携)
公式サイト舟木一夫 日本コロムビアオフィシャルサイト

舟木 一夫(ふなき かずお、本名:上田 成幸(うえだ しげゆき)、1944年昭和19年〉12月12日 - )は、日本歌手タレント橋幸夫西郷輝彦とともに“御三家”と呼ばれている。学生服八重歯がトレードマークで、デビュー当時は、学園ソングとよばれる、高校生活をテーマにした歌が多かった。血液型はO型。身長172cm
概要

初期の所属事務所はホリプロダクション、現在のホリプロであった。

愛知県中島郡萩原町(現・一宮市)出身。当初は舟木和夫という芸名になる予定だったが[注 1]、舟木が「和はひ弱な感じがあるので、一にして欲しい」と希望したために一夫になったという[1]。本人は、紙に書いたら字が縦に長くなって横倒しになりそうで頼りない感じがしたので、「和」を「一」にして“つっかえ棒”としてほしい、とお願いしたとも話している[2]。のびやかな美声で1960年代を中心にヒットを飛ばし、同じ時期にデビューした西郷輝彦橋幸夫とともに「御三家」として人気を集める。青春ソングの定番「高校三年生」に代表されるように、学生時代を題材にした歌謡曲のほか、『銭形平次』のテーマソングのように、時代モノも数多く歌っている。また舞台などにも出演し、多彩な活動をしている。
略歴
デビューまで

1944年12月12日、愛知県中島郡萩原町(現・一宮市)に生まれる。「燃えよドラゴンズ!99」のカップリング曲「ROCK'N ROLL ふるさと」の歌詞には生家への行き方が書かれている。父親は石川県河北郡津幡町笠谷の旧家の出で、父方の祖父は「立山伊次郎」の四股名で雷部屋に所属した力士であった[3]。舟木が父から聞いたという話によると、本名の「成幸」という名前は楠木正成真田幸村の二人の武将から一字ずつとって命名したとのことである[2]。音楽に興味を持ち始めたのは、1か月間肩叩きを続けたご褒美にと祖母からハーモニカをプレゼントしてもらったこと、ラジオで三橋美智也の歌を聴いたことがきっかけの一つ[4]。13歳年下の弟が出来た頃、家が貧しかったことから「誰かがこの家にお金を入れ続けないと。弟が物心つくまでに人並みの生活をさせてあげたい」として学校卒業後は自分の才能で短い間に稼げる世界に行きたいと思うようになり、そんな時に友人の家のテレビで歌手を見て、これだと思い歌手を目指すようになった[5]。中学2年生の時に父に頼み込み、中学の音楽の先生の紹介で指揮者の山田昌弘を紹介してもらい、名古屋市内の教室に通ってレッスンを受ける[6]。高校2年であった1962年2月、地元のCBCテレビの番組『歌のチャンピオン』に出場して松島アキラの『湖愁』を歌い、チャンピオンになる[6]。同年3月、名古屋市内のジャズ喫茶で行われた「松島アキラショー」で、ステージ上の松島アキラが『湖愁』を誰か一緒に歌わないかと客席に声を掛けた所、前列に居た高校生が勢いよく手を上げた。少年は隣に居た同級生に手首を掴まれての事であった。狐に摘まれた表情で舞台に上がった少年は、見事松島と共に「湖愁」を歌いきった。この少年こそ、後の舟木一夫である[7]。偶然そこに取材に来ていた「週刊明星」の記者恒村嗣郎が目を付け、上田少年に氏名と住所を聞き、東京に帰ると、早速ホリプロの会長だった堀威夫に名古屋での出来事を話し、興味を持った堀は、電話で上田少年に歌のテープを送ることを依頼。そのテープを聴いた堀は、翌年5月上田少年を上京させ、日本コロムビアのディレクターだった斎藤昇に紹介。斎藤は作曲家遠藤実にレッスンを受けさせることにし、上田少年は、愛知高等学校から転校した自由ヶ丘学園高等学校へ通いながら、遠藤実のレッスンを受けることとなった[7]

上田少年は芸名を舟木一夫とし、ホリプロに所属することになった。社長の堀は、当時デビュー2年目で全盛期を迎え、舞台で時々学生服を着て歌っていた橋幸夫の対抗馬として、当時現役高校生だった舟木を学生服デビューさせると決定した[8]
デビュー明星』1964年3月号の新聞広告

1963年6月5日、デビュー曲は恩師遠藤実作曲、日本コロムビア専属だった丘灯至夫作詞の「高校三年生」と決定した。同年3月で高校を卒業していた舟木だったが、「学生服で行け」という遠藤実の指示で、歌謡界異例の学生服デビューとなった。なお、「高校三年生」のレコードジャケットで舟木が着ているのは当時の母校の制服である[8]

「高校三年生」は、発売1年で100万枚の大ヒットを飛ばし、舟木は第5回日本レコード大賞新人賞を、丘は作詞賞を受賞した。デビューから2ヵ月後、本人が主演した同名映画も大ヒットし、舟木は一躍スター歌手になった。それに続き、学園三部作と言われた「修学旅行」「学園広場」もヒットした。

1964年3月には初のワンマンショーを東京・浅草国際劇場で行う。当日には、地元・一宮市から東京駅まで国鉄がワンマンショー観覧客のための特別列車を運行させ、東京駅から浅草国際劇場まではパトカー先導の元で観光バス19台で移動するというほどまでになった[9]
スター歌手に

1970年前後には、こうした青春ソング以外にも時代モノ、民謡調などの歌にも独特の持ち味で数々のヒットを飛ばした。


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