舟屋
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「舟屋」はこの項目へ転送されています。京都府木津川市の地区については「船屋」をご覧ください。

伊根町伊根浦
海面すれすれに立つ舟屋
重要伝統的建造物群保存地区
基本情報
所在地京都府与謝郡伊根町字亀島、字平田、字日出の各一部
種別漁村
選定年月日2005年(平成17年)7月22日
選定基準伝統的建造物群及びその周囲の環境が地域的特色を顕著に示しているもの
面積310.2ha
座標

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京都府内での位置.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}伊根町伊根浦伝統的建造物群保存地区


伊根町内での位置
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伊根の舟屋(いねのふなや)は、京都府与謝郡伊根町伊根湾(伊根浦)沿いの海面すれすれに立ち並ぶ船倉兼民家で、1階に船の収納庫、上階に住居を備えた、この地区独特の伝統的建造物である。この景観に人口2千人ほどの町に年間30万人超の観光客が訪れている[1]

伊根の舟屋が建つ地区は、重要伝統的建造物群保存地区として選定されているため[2]、伊根町伊根浦伝統的建造物群保存地区についても詳述する。
伊根の地理・歴史沿岸に立ち並ぶ舟屋群

伊根は伊根町亀島、字平田、字日出からなり、古くは伊禰の浦、現在では伊根浦ともよばれている。伊根浦は、東、西、北側の三方を丹後半島の山々に囲まれているため、日本海側からの季節風がさえぎられる地形である。また伊根湾は日本海側からの荒波が入りにくい南向きに開口し、また湾口の真中には、大小二つの島からなる面積計約5 haの青島があり、湾の入り口を二分し伊根湾にとって防波堤の役割となっている。そのため伊根湾内の波は穏やかである。また三方を囲んでいる山は硬い岩山で傾斜が急なまま海低にまで続き、水深が急激に深くなり、波を起こしにくい地形を形成している[3][4][5][6]。また潮の干満の差も少なく年間の平均潮位差は50 cm程度である[6]。山の急な斜面が伊根湾の海岸線まで迫っていることから、元の集落は現在の集落のように海沿いに並んでいたのではなく、現・集落の背後にある山の中腹が生活圏となっており、住居道路寺社などが段々に建ち並んでいた[7][6]。そのため出漁のたびに浜へ降り作業をするが、海岸線からすぐ傾斜が急な山の斜面となり、平地が少なく漁具を干したり漁船を陸地に上げるには狭く手間もかかる。そのため先人たちは、永年協力しあい山を削り僅かな平地を造り主屋を建て、海を埋めたて海際ぎりぎりに漁具、漁船を収納する舟倉としての舟屋を建て漁業への利便を図ったのが、舟屋の始まりとされる。当初、有力者などが狭い浜に主屋を建て住居が山腹から浜へ移っていき、次第に伊根湾沿岸部約5 km全域にわたり主屋や舟屋が連続する現在の町並みが形成されていった[7][6]

集落背後の山林や青島には、黒松赤松などが茂り良好な魚付林となっている。しかし、山を削り平地を広げているため、豪雨による山崩れが起きやすく、そのため近年、主屋の後方の急傾斜地の擁壁工事が行われ、高いコンクリートの壁に変わってきている[3][6]

伊根浦にいつ頃人が居住するようになったのかは不明であるが、伊根浦を見下ろす場所に大浦中尾古墳が発見され、発掘調査の結果6世紀末の古墳で、鉄直刀、鉄斧、鉄鏃須恵器などが出土し、海を支配する豪族のものと考えられ、伊根浦周辺に古代から人が居住していたことが窺える。伊根の文献上の初見は、建久2年(1191年)「長講堂所領注文」でみられ、伊禰庄として記されている[3]

鴨長明は伊根について、次のように詠んでいる。わかめ刈る与佐の入海かすみぬと 海人にはつげよ伊禰の浦風 ? 伝・鴨長明

宮津市にある山王宮日吉神社に残る天文18年(1549年)の棟札に、浦刀禰や刀禰権守などの多くの有力者の名が書かれており、伊禰庄の有力者の名もあることから、中世中頃には伊禰庄に集落が形成されていたと考えられている[3][8]。刀禰権守については、網漁業の指導者にあったと考えられている[8]

元和8年(1622年)に京極高広宮津藩主となり、旧・伊根庄の村落を含む158ケ村が藩領となっている。享保11年(1726年)には日出村、平田村、亀島村の3ケ村が存在し、現在の伊根浦の集落の原型ができていたと考えられている[3]。日出村、平田村、亀島村の3ケ村は、丹後近海では最も恵まれた漁場を持っており、伊根浦三ケ村ともよばれ、宮津藩にとって非常に重要な漁村であったとされる[9]

江戸時代初期までは湾内漁業が中心であったが、寛永年間(1624年?1643年)には湾外でも漁業が行われるようになり、現在まで漁村集落として維持されてきた[3]伊根湾沿岸に舟屋群が立ち並び、湾口に青島がある。
伊根湾周辺の空中写真(1975年)
国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成
青島

元禄2年(1689年)の『丹後与謝海図誌』には、「常緑樹が生い茂り」とあり、江戸中期ごろの『丹哥府志』には「椎の木が多く、鯨が入るところ」と記されていることから魚付林として繁茂していたことが窺える[10]。平地が少ない伊根浦であるにもかかわらず、亀島村、平田村の両村の掟として、青島に人が住むことが禁止されており、また木の葉を拾うことや枯れ木を拾い集めることも厳重に禁止されていた[10]。ただし蛭子神社、弁財天社、正法寺などの社寺が建っており、かつては亀島村の墓所もあった。また死人弔場とよばれる漂流死体を安置し死者を弔う建物が絵図に描かれている[10]。これらのことは、青島は伊根浦にとって聖なる島であったことを表している[10]

また鯨遠小屋、鯨舟屋、鯨油小屋、鯨勘定屋があったが、捕鯨権は亀島村のみにあったため、これらの支配権は亀島村に帰属していた[11]。また鯨が捕獲された場合、青島の蛭子神社の下に引き寄せ、亀島村の4部落が参加し競争入札をし[11]、鯨の解体処分が終わると浜で供養を行っていた[12]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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