舞鶴要塞(まいづるようさい)とは、舞鶴鎮守府周辺に設置された大日本帝国陸軍の要塞。1897年(明治30年)11月に建設が開始された。舞鶴港にある海軍施設の防衛を任としていた。
日清戦争で勝利した日本は、南進を続けるロシアを脅威とし、対露防衛の要として新舞鶴(現在の京都府舞鶴市東部)に海軍の軍事拠点、舞鶴鎮守府の建設を決定、それに先立ち1887年(明治20年)3月、舞鶴要塞地帯(葦谷砲台)の建設に着手、陸軍も同年11月に砲台建設と舞鶴要塞砲台大隊を駐屯させている。なお全工事の完了は1903年(明治36年)10月のことだった。日本陸軍の要塞としては、日本海側に設置された唯一の軍事要塞地帯のものであった。
舞鶴重砲兵連隊の敷地には現在日星高等学校が存在する[1]。
沿革
1889年(明治22年):第四海軍区鎮守府を舞鶴に設置する事を閣議決定。
1897年(明治30年):舞鶴湾防衛を任とし舞鶴要塞建設着工。
1898年(明治31年):舞鶴要塞司令部を加佐郡余内村倉谷より同村上安久の敷地(現在の舞鶴税務署)に移転[1]。
11月28日:舞鶴要塞砲兵大隊は余内村に移転[2]。
1900年(明治33年)6月1日:舞鶴要塞司令部が余内村の庁舎に開庁[3]。
1901年(明治34年):舞鶴鎮守府、開庁。
1903年(明治36年):全工事完了。
1907年(明治40年):舞鶴要塞砲台大隊を舞鶴重砲兵大隊に改称。
1936年(昭和11年):舞鶴重砲兵連隊に昇格。
1933年(昭和8年)10月30日、昭和天皇が舞鶴港を巡幸(福井県で行われた陸軍特別大演習の帰路)。要塞司令部、重砲兵大隊を視察[4]。
1940年(昭和15年):陸軍中部軍創設により、中部第71部隊と改称。
1945年(昭和20年):終戦。陸海軍、舞鶴要塞放棄。
歴代司令官
西村精一 少将:1900年4月25日 - 1900年7月29日[5]
桜井重寿
舞鶴要塞地帯は日本海側唯一となる軍事拠点、舞鶴港を防衛するためその港湾写真すら機密情報とされ、要塞地帯法
(明治32年制定)、軍機保護法(同年制定)によって厳しく制限されていた。特に舞鶴軍港内を一般営業運転していた国鉄中舞鶴線では、車窓からは軍港が見えないよう、舞鶴軍需部(現在の舞鶴市役所)から海軍機関学校(現在の舞鶴地方総監部)に至る海岸側を、軍港遮蔽のため板塀を張りめぐらしていた。