舞鶴海軍工廠(まいづるかいぐんこうしょう)は、京都府舞鶴市にあった日本の海軍工廠。駆逐艦建造の多くを手がけた。現在はジャパン マリンユナイテッド舞鶴事業所となっている。 全国の良港を実地調査した日本海軍は、1889年(明治22年)に全国で4番目の鎮守府として日本海側の舞鶴を選択し、軍港として整備を決定した。舞鶴の鎮守府設置は遅れ、実際の設置は1901年(明治34年)10月だった。鎮守府設置と前後して置かれた「造船廠」は当初、艦艇整備ができる程度の設備だったが、1903年(明治36年)11月に舞鶴海軍工廠に組織を改編して設備を充実し、のちに駆逐艦建造の中心を担った。1923年(大正12年)4月にワシントン軍縮条約の影響で一時工作部に格下げとなるが、駆逐艦建造の主導的立場は変わらず、1936年(昭和11年)7月に工廠へ復帰して戦争終盤まで駆逐艦を建造した。 舞鶴で各型の1番艦を建造して技術を蓄積し、2番艦以降を各地の造船所で建造する例が多かった。吹雪型、陽炎型、夕雲型、島風(2代目)、秋月型、松型のそれぞれ1番艦がここで建造される。駆逐艦は新開発された機関(エンジン)が試験的に導入されることが多く、この分野も主導した。 1944年(昭和19年)5月に鋼材不足を補うため、同海軍工廠の技術中佐林邦雄がコンクリート船「武智丸」を設計し、兵庫県高砂市の造船所で建造した。この船は昭和19年から昭和20年にかけて使用された後、昭和22年から広島県呉市安浦漁港で防波堤に転用されている。 終戦後、飯野産業が運営を引継ぎ、飯野産業株式会社舞鶴造船所として造船業を継続した。その後の経営主体は飯野重工、舞鶴重工業、日立造船、ユニバーサル造船と変遷して現在はジャパン マリンユナイテッド舞鶴事業所である。
概要
戦前
戦後
沿革
戦前
1889年(明治22年)舞鶴に軍港設置を決定する。
1901年(明治34年)舞鶴鎮守府開設、前後して「舞鶴造船廠」を設立する。
1903年(明治36年)「舞鶴造船廠」を「舞鶴海軍工廠」に組織改編する。
1904年(明治37年)第一船渠(現2号ドック)が完成する。
1914年(大正 3年)第二船渠(現3号ドック)が当時の国内で最大級として完成する。
1923年(大正12年)舞鶴鎮守府を要港部に格下げ、「舞鶴工廠」も「舞鶴工作部」となる。
1936年(昭和11年)「舞鶴工作部」が「舞鶴海軍工廠」に復帰する。
1939年(昭和14年)舞鶴鎮守府を再設置する。
1941年(昭和16年)13号クレーンが完成する。設置場所を移動して現在も稼動する。
戦後
1946年(昭和21年)飯野産業が旧舞鶴海軍工廠運営の移譲を引受け、飯野産業株式会社舞鶴造船所として発足。
1953年(昭和28年)飯野重工に社名を変更する。
1963年(昭和38年)日立造船の傘下となり、舞鶴重工業に社名を変更する。
1971年(昭和46年)日立造船と合併し、日立造船舞鶴工場となる。
合併後については「日立造船#沿革」を参照
2002年(平成14年)10月1日 日立造船・日本鋼管の船舶部門がユニバーサル造船に営業譲渡され、ユニバーサル造船舞鶴事業所となる。
2013年(平成25年)1月1日 ユニバーサル造船がアイ・エイチ・アイ マリンユナイテッド(IHIMU)を吸収合併し、ジャパン マリンユナイテッド舞鶴事業所となる。
2020年(令和2年)2月3日 舞鶴事業所における構造改革として、既受注船が完工次第、新造商船の建造を終了し、艦船修理事業に特化する事を発表した[1]。
2021年(令和3年)5月26日 - 舞鶴事業所にて、同事業所における最終建造船である「SAKIZAYA VICTORY」を引き渡し。同日をもって、旧日本海軍の舞鶴海軍工廠時代から数えて100年以上の新造船建造に幕を閉じた[2]。
工廠長
第一次工廠長
橋元正明 少将:1903年11月10日 - 12月28日
向山慎吉 少将:1903年12月28日 - 1905年5月11日
中溝徳太郎 少将:1905年5月11日 - 1908年5月15日
北古賀竹一郎 少将:1908年5月15日 - 8月28日
坂本一 少将:1908年8月28日 - 1910年4月9日
加藤定吉 少将:1910年4月9日 - 1911年3月11日
小泉鞫セ郎 少将:1911年3月11日 - 12月1日
茶山豊也 少将:1911年12月1日 - 1913年12月1日