舞姫_(川端康成)
[Wikipedia|▼Menu]

舞姫
作者
川端康成
日本
言語日本語
ジャンル長編小説
発表形態新聞連載
初出情報
初出『朝日新聞1950年12月12日号-1951年3月31日号(全109回)
刊本情報
出版元朝日新聞社
出版年月日1951年7月15日
装幀岡鹿之助
題字高橋錦吉
ウィキポータル 文学 ポータル 書物
テンプレートを表示

『舞姫』(まいひめ)は、川端康成長編小説。川端が作中で初めて「魔界」という言葉を用いた作品である[1][2]。夢を諦めた元プリマ・バレリーナの一家の孤独な人間関係を描いた物語。過去の舞姫の母から夢を託された娘、妻の財産にたかっている守銭奴の夫、親や国に対して冷めている息子、優柔不断な元恋人、といった無力感に取り巻かれた関係性の中に、敗戦後の日本で崩壊してゆく「家」と、や充足を追い求め「乱舞」する人間の永劫回帰の孤独な姿が描かれている[3][4]。1951年(昭和26年)8月17日には、成瀬巳喜男監督により映画化された。
発表経過

1950年(昭和25年)12月12日から1951年(昭和26年)3月31日まで『朝日新聞』に109回にわたって連載された新聞小説で、単行本は連載終了同年の7月15日に朝日新聞社より刊行された[5][6][7]。文庫版は新潮文庫で刊行されている。

翻訳版は、ドイツ中国スペインで行われている[8]
川端康成と「魔界」

『舞姫』には、のちに川端文学の重要なモチーフとなる「魔界」の元となった一休の言葉、「仏界易入 魔界難入」が用いられ、「仏界と魔界」という独立した章も設けられている。川端は『舞姫』の執筆前あるいは執筆中に、この「仏界、入り易く、魔界、入り難し」という言葉に初めて出会い、強く惹かれて作品の主題にしたものと推測されている[1][2]

この一句について川端は『舞姫』の中で、〈日本仏教の感傷や、抒情〉などの〈センチメンタリズム〉をしりぞけた〈きびしい戦ひの言葉かもしれない〉と登場人物に語らせているが、『舞姫』ではそれが自問自答の域を出ずに、登場人物に、それを体現する強いキャラクターの造型がなされないまま終わり[1]、この〈魔界〉のテーマをもう一歩深め、明確になっていくのが、のちの『みづうみ』(1954年)、『眠れる美女』(1960年)、『片腕』(1963年)となる[1][2]森本穫はそのことを、「場合によっては作家としての存在そのものを脅かすかもしれない危険にみちた世界」を描いていくことになると表現している[9][1]

川端の〈魔界〉の特徴は、でいう煩悩の世界、煩悩の諸相を描きながらも、それを自然主義的な方法で暴露としての「悪や醜」と捉えるのではなく、「人間が本然の姿で生きるところに純粋さが存在する」とみて、煩悩に生きる人間が「自己投企」してゆく姿を「」と捉えたところにあり[2]、煩悩(現実の醜)を「美」に昇華してゆくということが、川端の作家としての方法だと今村潤子は考察している[2]。原善は、「人間存在の原初的な不安や悲しみ」の世界が〈魔界〉であり[10]、それは、「救済を求めつつ果たされぬ、その不可能性を内実としているもの」だと解説している[10]

川端は、「仏界易入 魔界難入」について次のように語っている。意味はいろいろに読まれ、またむづかしく考へれば限りないでせうが、「仏界入り易し」につづけて「魔界入り難し」と言ひ加へた、そのの一休が私の胸に来ます。究極は真・善・美を目ざす芸術家にも「魔界入り難し」の願ひ、恐れの、祈りに通ふ思ひが、表にあらはれ、あるひは裏にひそむのは、運命の必然でありませう。「魔界」なくして「仏界」はありません。そして「魔界」に入る方がむづかしいのです。心弱くてできることではありません。 ? 川端康成美しい日本の私―その序説[11]
あらすじ

1950年(昭和25年)11月 - 1951年(昭和26年)春まで

波子は、夫・矢木元男に内緒で、しばしば結婚前(20年前)の恋人で今も友人関係にある竹原と会っていた。竹原とはプラトニックな関係であったが、波子は竹原を愛し、焼跡となった実家の土地を売る相談の口実などで密会していた。かつてバレリーナであった波子には、21歳の娘と大学生の息子がいた。娘・品子も母と同じような舞姫を目指し、波子は娘に夢を託していた。息子・高男は冷めた性格だが、どちらかというと父親寄りで、美しい母親にかしずかれている父を尊敬していた。矢木は国文学者で、今は古美術や仏像の「美女仏」研究も始めているが、昔は中宮寺観音像さえ知らず、女学生の波子より教養のなかった貧乏書生上りで、波子の家庭教師であった。波子の家は上流階級で、二人の結婚には矢木の母親の打算もあった。戦争中空襲四谷見附の邸宅が焼け、戦後は北鎌倉にある波子の実家の別荘が矢木一家四人の住居となっていた。

矢木は波子の財産にたかり、それを管理し、戦後はこまかい金にもいちいちうるさくなっていた。波子は、大学に籍を置いている夫の月給袋を渡されたこともなかった。矢木は波子が竹原と会っていることを薄々知っていたが、嫉妬は顔には出さずに妻を観察していた。波子はそんな夫の気配におびえ、今は愛してはいなかったが、求めを拒むことができず、抱かれれば金の輪がくるめき、燃える赤い色が見えた。しかし今はもう幸福の輪ではなく、悔恨と屈辱であり、まだ見たことのない竹原の妻への嫉妬も感じるのだった。

ある日、帝国劇場で竹原と舞踊劇を観た帰りに息子の高男と行き会った波子だったが、高男からその報告を受けた矢木は、子供たちの前で妻の長年の精神的浮気を難詰した。矢木は、子供たちが傷つくような例えまで言い出して陰険に波子を責めた。もう一家は実質的にバラバラだった。その夜、波子ははじめて夫を拒んだ。戦時中は愛国的であったが、戦後は逃避的な非戦論者となった矢木は、家計が苦しい中、妻に内緒で自分の貯金をし、次の戦争(朝鮮戦争)に怯え、政治的(共産主義)になりそうな息子をハワイの大学へやり、妻や娘は日本に置いて自分もアメリカへ逃げようと計画していた。それを知った品子は母にそのことを教えた。高男も、母に浮気されている父を尊敬しなくなったが、「世界の人になるという、希望のような、絶望」の麻酔を父にかけられることを知った上で、ハワイへ行こうとしていた。

品子は同じバレエ団の男性ダンサーの野津にさりげなく結婚を申し込まれたが、品子の心には元バレエの先生だった香山への想いが断ち切れなかった。戦時中16歳だった品子は香山と一緒に慰問に回り、タマーラ・トゥマーノワの話を聞かされた思い出をなつかしんでいた。香山はバレエをやめて伊豆にいるという噂だった。一方、波子も竹原に身をまかせてもいいと思い、四谷見附の宿屋で気持ちがゆれていた。北鎌倉の家を売って、四谷見附の元の家の焼跡の土地に品子の舞踊研究所を建ててやろうとしていた波子は、竹原にその計画を任せていたが、北鎌倉の土地はすでに矢木が自分名義に書き換えているのではないかと考えた竹原は、波子の愛人としてではなく、友人として矢木と対決するために、宿屋で一線は越えなかった。

あくる日の日曜日、竹原が矢木家を訪ねてきたが、矢木は女中に命じ、竹原を追い払った。品子は東京の稽古場に行く支度が出来ていたので、急いで竹原を追って北鎌倉駅に行った。矢木がやはり家の名義を書き換えていたことを調べた竹原は、それを波子に伝えるように品子に頼んだ。品子は母に代って竹原に何か伝えたいものがあったが、言葉にならずに不意に立ち上がり、次の大船駅で降りた。入れ違いに入って来た伊東行きの湘南電車にとっさに乗った品子は、自分が香山に会いに行くのだと思うと気持ちが落ち着いた。品子は伊東駅からバスに乗った。下田まであと3時間あまりだから、途中で日が暮れると品子は思った。
登場人物
波子
41歳くらい。元
バレリーナ。戦争が激化したのを機に舞台を退いている。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:64 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef