舞妓
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舞妓(まいこ)は、京都の五花街上七軒先斗町宮川町祇園甲部祇園東)において、舞踊・御囃子などの芸で宴席に興(きょう)を添えることを仕事とする少女のこと。芸妓の見習い修行段階の者をいう。
概要

舞妓・芸妓は、今から約300年前の江戸時代に、京都の八坂神社(当時は祇園社)のある東山周辺の、神社仏閣へ参詣する人や街道を旅する人にお茶をふるまった水茶屋の茶立女(ちゃたておんな)に起源がある。水茶屋も初めはお茶や団子を提供していたものに、やがて酒や料理が加わり、その店で働く彼女達が、歌舞伎芝居を真似て三味線や舞踊を披露するようになった。現在も京都の祇園を中心とした花街で厳しいしきたりの下で活躍している。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}京都市内で、普通に見かける舞妓は、観光客の扮した舞妓変身である。本職の舞妓が日中、花街や花街以外を出歩くことは珍しく、京都府民・京都市民でも、花街以外で本物の舞妓を見かけることはほとんどない。[独自研究?]

東京など関東地方における「半玉」「おしゃく」とは別の文化起源であるため、区別されるものである。舞妓(左)
京都の舞妓都をどりで舞を披露する舞妓

古くは「舞子」と書き、かつては9歳から13歳でお座敷に上がり接客作法を学び、芸能など修業して一人前の芸妓に成長していた。現在では中学卒業後でないとなれない。

通例、半年から2年ほどの「仕込み」期間を経た後、1か月間「見習い」として、だらりの帯の半分の長さの「半だらり」の帯を締め、姐さん芸妓と共に茶屋で修行する。置屋女将、茶屋組合よりの許しが出れば、晴れて舞妓として「見世出し」が可能となる。座敷や舞台に上がるときは芸妓も舞妓も白塗りの厚化粧をするが芸妓が通常を付けるのに対し、舞妓は自髪で日本髪を結い、四季の花などをあしらった華やかで可憐な花簪(長く垂れ下がった簪は1年目のみであり、以後は次第に花が大きくなる)を挿す。舞妓の初期は「割れしのぶ」という髪型で、2年から3年後に「おふく」となり、芸妓への襟替え1週間から4週間前には「先笄」を結い、お歯黒を付ける(引眉しないので半元服の習慣が現代に残るものと見てよい)。襟足をV字状に白塗りするのは、江戸時代の女性が生え際の髪を抜いて同形状に整形していた名残である。襟替えして芸妓になる時期は20歳前後が多かった。振袖にだらりの帯が特徴的な舞妓(左)

年齢が若いために見習いであるという建前から、衣装は必ず肩上げ、袖上げのされた裾を引いた振袖の着物を着る。歩くと音が鳴るぽっくり(こっぽりとも、京都では「おこぼ(新米の舞妓には内側に鈴が付けられる)」)の下駄にだらりの帯、という派手な格好もあるせいで、現在ではむしろ芸妓(芸子)よりも舞妓のほうが上方花街の代表的存在であると言えるかも知れない。座敷では主に立方を務め、祇園甲部に限って京舞井上流、それ以外では若柳流などの舞踊を披露する。いずれの出身地にかかわりなく独特の京ことば(祇園ことば)を使うよう教育されるために、京都の象徴であるかのように扱われることも多い。

本業は茶屋や料亭、旅館などにおいての接待であるが、最近はテレビなどのメディアへの露出、養護施設や病院への慰問、海外への派遣の仕事も多い。「一見さんお断り」の閉鎖的空間であった花街も近年、徐々に門戸を開いており、京都市観光協会が観光イベントとして協賛し、2009年1月より祇園の料理旅館で「京料理と舞妓の夕べ」なども定期的に開催されるようになった。また、「おおきに財団」(京都伝統伎芸振興財団)が、お茶屋でお座敷遊びのイベントを開催することもあり、一般の観光客にも花街文化を体験できる機会が増えている。一方で、近年では「舞妓パパラッチ」とも称される外国人観光客による接触や付きまといや強引な撮影など、舞妓に対する迷惑行為が増え、行政や地域住民らが注意喚起するリーフレットを作成・配布をしたり看板を掲げたりするなどの対策を行っている[1][2]肩上げの着物と花簪

現在、京都の花街で舞妓がいるのは祇園甲部宮川町祇園東先斗町上七軒の五花街である。インターネットを通して舞妓志望者を募る置屋もある。近年はブームのおかげもあってか舞妓志望者は増加傾向だが、昔気質のつらい修行に耐え切れず辞めてしまうことも多い。そのため、花街ではいかに質の高い芸舞妓を保持するかが今後の問題である。
京都の象徴としての舞妓

名神高速道路での標識(京都市への距離表示・京都府・京都市のカントリーサイン)に舞妓の姿が描かれたり、京都観光を題材としたCMに舞妓や舞妓の扮装をした観光客が登場したりするなど、舞妓は「京都」の象徴とされることも多い。京都の花街に出す舞妓の板
京都以外の舞妓

京都以外の日本各地にも「まいこ」と呼ばれる芸妓がいる。京都のように修行の段階で区別されるとは限らず、一人前の芸妓、芸者を指す地域が多い。

酒田市山形県)には舞娘と書いてまいこと読む年少芸妓が居るが、衣装(帯結び)は京都の舞妓とは異なる。酒田市にある相馬樓で見ることができる。

山形市にも上記と同様のやまがた舞子が居る。花笠祭りにも登場。

秋田市にあきた舞妓が居る。明治終わりから昭和初期に川反芸者として秋田市の繁華街にて発展していた。かつての秋田の舞妓文化を継承するために、新たに2014年に誕生した[3]

あわら市福井県)の芦原温泉に於いて2004年に38年ぶりの舞妓が誕生した[4]。ひきずりの着物にだらりの帯、という京都の舞妓と同じ衣装、但し地毛ではなくかつら(場合により地毛で結っている時もある)。

奈良市元林院町の花街では舞妓ではなく、「舞子」という表記になる。舞子は京都と同じく、引きずりの振袖にだらりの帯、地毛で結った京風日本髪に花かんざしを挿し、おこぼを履く。

大阪市には太平洋戦争前には舞妓が居た。京都とは異なり、帯結びが腰元の様な立て矢であるのが特徴(「やぎっちゃ」という結び方)。また髪型も京風の引き鬢ではなく、江戸風の出し鬢であった。衣装などが空襲で焼失し、写真も僅かしか残らず、資金面などの問題もあり、復活は難航したが、2008年5月に若手の芸妓2名により復活に漕ぎ着けた。[5]

神戸市有馬温泉では高卒の新人は舞妓(半玉)と呼ばれる。詰め袖の着物だが京都と同様の肩上げをし、鬘だが花かんざしを付ける[6]

このほかの関西や四国・九州地方などの花柳界にもかつては「舞妓」と呼ばれる存在があった。しかしその姿は京都の舞妓に類似するもの、むしろ関東の「半玉」(または大阪の舞妓か)に近いものと様々であった。

名古屋市の花柳界「名妓連」には舞妓が2名居る。舞妓になるには、金の鯱が出来ることが必須である。また引き摺りではなく、普通の振袖を着用し、帯は後見結びで、帯締めにぽっちりは付けず本結びにする。着物類や簪は自前。

岐阜市の花柳界「鳳川伎連」にも1名舞妓がいる。引き摺りの振袖で、京都の舞妓に姿が似ている。岐阜には独自の舟遊び文化があり、屋形船乗船の際は帯結びが異なる。岐阜県内を走る長良川鉄道越美南線の「舞妓列車」に同乗することもある[7]

このほか、高知県高知市の料亭でも芸妓や仲居、和装コンパニオンとともに舞妓を雇用している(いわゆる「社員制度」の舞妓)[8]

いずれの花街も京都と違い、現在は舞妓として座敷に出るには18歳以上であることが定められている。
労働問題

舞妓として働く女性は15歳から20歳の未成年者であるが、2022年6月、飲酒混浴性接待などの違法行為・人権侵害が行われているという告発がなされた[9][10]。その中で、例えば「身八つ口から手を入れられてを触られることも、個室で裾を広げられてお股を触られたこともあります」などの被害が報告された。花街全体ではそういったことのないように厳しく対応しているとされるものの、「ホンマのことやからバラされても仕方ない」「もっと色々と公にしてほしい」と考える舞妓もいるという[9][10]

2022年7月12日、最初に告発した女性がメディアの取材に応じ、休日は月に2日、「お小遣い」は月に5万円程度、などの労働環境が明かされた[11]。21時から24時の後口では割烹料理店やバーに行くことが多く、クラブキャバクラのアフターと同じだったという。


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