舞の海秀平
[Wikipedia|▼Menu]

舞の海 秀平

NHK大相撲解説を務める舞の海秀平
基礎情報
四股名舞の海 秀平
本名長尾 秀平
愛称技のデパート(本舗)、平成牛若丸、マイちゃん、シュウヘイ
生年月日 (1968-02-17) 1968年2月17日(56歳)
出身青森県西津軽郡鰺ヶ沢町
身長171cm
体重101kg
BMI34.54
所属部屋出羽海部屋
得意技左差し、下手投げ内無双切り返し
成績
現在の番付引退
最高位東小結
生涯戦歴385勝418敗27休(58場所)
幕内戦歴241勝287敗12休(36場所)
技能賞5回
データ
初土俵1990年5月場所(幕下付出
入幕1991年9月場所
引退1999年11月場所
引退後NHK大相撲専属解説者
他の活動マルチタレントスポーツキャスター
備考
2019年3月20日現在■テンプレート  ■プロジェクト 相撲

舞の海 秀平(まいのうみ しゅうへい、1968年2月17日 - )は、青森県西津軽郡鰺ヶ沢町舞戸町出身で出羽海部屋に所属した元大相撲力士。本名は長尾 秀平(ながお しゅうへい)。最高位は東小結。現役引退後は、NHK大相撲専属解説者マルチタレントスポーツキャスター境川部屋の師範代もつとめている[1]

有限会社舞の海カンパニー所属。愛称は「舞ちゃん」「シュウヘイ」のほか、関取時代は「平成牛若丸[注 1]、「技のデパート」(旭鷲山入幕後は「技のデパート・本舗」)とも呼ばれた[3]。現在の体格は身長169cm、体重85kg。血液型B型、左利き
経歴

漁師町での育ちであったため、日々の食事はカレイイカなどの魚介類中心で味噌汁にはにぼしの粉末が入り、食事を残すと両親に怒られたためそれが嫌で仕方なく食べた。しかしこれが、大相撲時代に一度も骨折を経験したことがないという丈夫な骨の基礎となった[4]鰺ヶ沢町立舞戸小学校時代は学年で一番強く、校内の相撲大会で活躍していたが、鰺ヶ沢町立鰺ヶ沢第一中学校相撲部に進むと同級生に追い越され一時は相撲部をやめようと決意するも、顧問の先生に拒否されやむなく稽古を継続する。その甲斐あって中学3年時には青森県代表として全国中学校相撲選手権大会に出場、ベスト8の成績を残す[5][6]

中学2年生の時、スキー場で青森県立木造高等学校相撲部顧問の岩城徹に「うちで相撲をやらないか」と声をかけられた。中学3年になって同級生たちが相撲の強豪校である地元の青森県立鰺ヶ沢高等学校に勧誘されていった中で長尾は体重60kgの小兵であるため中々呼び声がかからず内心傷ついていた[7]。しかし、岩城が家まで訪れ家族に勧誘の意志を伝えたため、これに心が震えて木造高校に進学[注 2]。高校時代の岩城が付けた稽古は厳しく、熱が出ると「熱があるのは生きている証拠だよ」と言いくるめられ、首が痛むと「もげてないから大丈夫だよ」と一蹴された。稽古で耳が裂けて縫っても、岩城はラグビー部からヘッドギアを借りてこさせ、「これをかぶって稽古しろ」と言った[8]。岩城はただ厳しいだけでなく、大学の留年が決定した4歳年上の長尾の兄を知って「何やってんだ。だらしねえな」とぼやきつつも、長尾を含めて兄弟3人が東京で大学生活を送る状況になる長尾家を案じて、長尾が奨学金を受けられるように手配してくれた[9]。岩城は長尾に後に力士となる基礎を叩き込んだ、長尾にとっての重要な人物であり、長尾も後年「この出会いがなければ今はない」と感謝の気持ちを語った[10]

高校時代の長尾はテスト前日になると出題するポイントを聞き出すまで粘って先生に貼り付き、それを他の部員たちに教えるため部員たちは大助かりであった[10]。同級生たちは後に大相撲で活躍を遂げた長尾を「相手が大きくても頑張っている姿。諦めずに向かっていけば、最後どうにかなるということを学ばせてもらった」「彼は有名になっても全然変わらない」と語っていた[10]

日本大学経済学部に進学、相撲部に入部した時点では70kgに満たない体重であった長尾は、130sの体格が当たり前の日大相撲部の面々を見て厳しい現実を痛感したが、「九十キロになったらレギュラーで使ってやる」[11]との田中英壽監督の言葉を信じて増量を敢行。育ち盛りなのに脂っこいラーメンよりもあっさりしたそばが好きで、焼肉も嫌いという食の細い少年であったが、「内臓を先に壊すか、増量に成功するか、一つの賭け」と、朝はどんぶり飯5杯、昼は学食の定食2人前、合宿所に戻る途中の立ち食いそば店でうどん1杯、夜は再びどんぶり飯を5杯、寝る前には牛丼や弁当を詰め込むという食生活を行った。さらに授業の合間にシュークリーム、喫茶店で生クリームたっぷりのウインナーコーヒーを口にし、この食事稽古に食後は落としたものも拾えないほど腹が張った。結果、日大4年次に体重を90kgに到達させた[12]

山形県高校教員採用試験社会科)に合格していたが、大学在学時の同郷の後輩である成田晴樹[注 3]の急死を契機として一転大相撲入りを志す。入門を相談した際に母の猛反対に遭い、結局母とは絶縁することでようやく入門を許された。しかし、身長が当時169cmで日本相撲協会新弟子検査合格基準(当時は173cm以上)に達していないため田中監督も懸念を示し、目溢しを期待して当時角界のNo.2であった9代出羽海が師匠を務める出羽海部屋への入門を選び、1度不合格を経験した後、手術シリコーンを頭に埋め身長を一時的に高くして合格を掴んだ[3][13]。「新弟子検査#歴史」も参照

学生時代に残した全日本相撲選手権大会ベスト32の実績が認められて幕下付出(60枚目)資格を取得、1990年5月場所に本名である『長尾』の四股名初土俵を踏んだ。この場所で6勝1敗の好成績を収め、13日目の取組で唯一6戦全勝だった栃天晃が星違いの琴の若に敗れたため、1敗力士8人による幕下優勝決定戦に出場した(準決勝で、優勝したに敗れた)[3]。大相撲入後に食欲増進用に日本酒を積極的に食事に取り入れ、日大時代の90kgよりさらに5kg増量した95kgまで体重を伸ばした[12]

十両に昇進し、四股名を郷里の舞戸町と部屋の出羽海に因んだ『舞の海』へと改名した後は、多彩な技で大型力士を倒すその取り口から「技のデパート」、「平成の牛若丸」の異名で呼ばれるようにもなった。「猫騙し」の活用に始まり、「後退する立合い」、「くるくる舞の海」と言われた目回し作戦、1991年11月場所の戦でみせた「三所攻め」、1992年1月場所の貴闘力戦でみせた「居反り襷反り」(技は成功せず)、当時の二子山理事長に「八艘跳び」と呼ばれた1992年1月場所・北勝鬨戦での立合いジャンプ作戦など、四十八手を駆使した取り口を見せ[14]、相撲界を盛り上げた。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:90 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef