日本の政治家舛添 要一ますぞえ よういち
全国知事会より公表された肖像
生年月日 (1948-11-29) 1948年11月29日(75歳)
出生地 日本 福岡県北九州市八幡東区
出身校東京大学法学部第3類卒業
前職国際大学グローバルコミュニケーションセンター研究員、教授
現職政治評論家
所属政党(自由民主党→)
(改革クラブ→)
(新党改革→)
無所属[1]
称号法学士(東京大学・1971年)
配偶者フランス人女性(1978年 - 1981年)[2][3]
片山さつき(1986年 - 1989年)
日本人女性(1996年 - )[4]
公式サイトますぞえ要一 公式サイト
舛添 要一(ますぞえ よういち、1948年〈昭和23年〉11月29日 ‐ )は、日本の国際政治学者、大学教授、政治家。
参議院議員(2期)、参議院自由民主党政策審議会長、厚生労働大臣(第8・9・10代)、新党改革代表(第2代)、東京都知事(第19代)などを歴任した。 福岡県八幡市(現:北九州市八幡東区)に父・彌次郎、母・ユキノ(母は長野県駒ヶ根市の小池家の出身)の長男として生まれた。4人の姉がいる。公式サイトによれば、舛添家は江戸時代から続く庄屋の家系である[5]。 父は1930年(昭和5年)の若松市議会選挙に立憲民政党陣営から立候補したこともあった(次点で落選[6])。 若松で石炭商(燃料店。現在のガソリンスタンドのような存在)を営んでいた父は、行き詰まって八幡東区で八百屋に転じたものの商いは厳しく、要一が小学2年の時に近くの材木店の火災で類焼して以降は酒に溺れ、一家は長女らの働きで糊口を凌いだ[7]。 八幡市立祝町小学校 1971年7月、東京大学法学部助手に採用され、引き続き篠原一の下でヨーロッパ政治を学んだが、間もなく渡仏。蔵書資料や指導教官など東大の研究環境の悪さに辟易しての決断だったが、当時、助手の身分での留学は異例で始末書まで書かされた[11]。日仏学院、グルノーブル大学にてフランス語研修を受けた後、パリ大学現代国際関係史研究所客員研究員、ジュネーブ国際研究大学院(HEI)研究員としてフランス外交史の研究を行った(主に戦間期フランスの安全保障政策の研究)。1979年に東京大学教養学部助教授に就任(政治学)。フランスを初めとする欧州の政治・外交・安全保障に関する研究を専門とし、国際関係論などを講じていた。 1980年代末から『朝まで生テレビ!』『サンデープロジェクト』『ビートたけしのTVタックル』などの討論番組に頻繁に出演した。1989年6月に東京大学の体質を批判して退官、舛添政治経済研究所を設立し独立する。独立後はバラエティ番組などにも活動の場を広げた。漫才の審査員も行っており、太田光(爆笑問題)は「俺らなんか若手の頃、審査員と揉めた。俺らの時代は文化人やアイドルとかが(審査員を)やるわけよ。本番中につまらないって言ってきたから、『てめえに何が分かるんだ、馬鹿野郎』「お前に言われたくないよ、すっこんでろ』って言った相手が舛添要一だよ。そしたら会場ドン引き。誰も笑わない。散々揉めたよ。しょうがないことだよ」と述べている[12]。 1999年の東京都知事選挙に無所属で出馬。当初、出馬表明していた野末陳平は出馬を断念し、舛添を支援した[13]。3位で落選したが84万票を獲得した。 2001年7月、第19回参議院議員通常選挙に比例区から自民党候補として立候補し、158万8862票を獲得してトップ当選。2006年10月、安倍内閣発足に伴い当選1回ながら参院自民党の政策責任者である政策審議会長に就任した。 2007年7月の第21回参議院議員通常選挙では、再選を目指し自民党公認で比例区より立候補、与党への逆風の中で票を減らしたが、467,735票を獲得して自民党トップで当選した。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}選挙前後を通じて、党参院執行部の1人でありながら安倍内閣の政権運営を厳しく批判してきたが[要出典]、同年8月27日の第1次安倍改造内閣に厚生労働大臣として入閣し、安倍晋三が首相を辞任した後の同年9月26日に発足した福田康夫内閣、さらに2008年9月24日に発足した麻生内閣においても続投した。
来歴
生い立ち
政治学者
参議院議員