舘信秀
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舘 信秀
たち のぶひで
生誕 (1947-03-23)
1947年3月23日(72歳)
日本三重県
職業トムス会長
トヨタ・モータースポーツ・クラブ会長
レーシングドライバー
配偶者あり
公式サイト ⇒トムス

舘 信秀(たち のぶひで、1947年3月23日 - )は、三重県出身の元レーシングドライバー実業家トムス代表取締役会長、TOYOTA TEAM TOM'S 代表。トヨタ・モータースポーツ・クラブ(TMSC)会長。目次

1 人物

2 略歴

3 脚注

4 外部リンク

5 関連項目

人物

信秀はレース活動における通り名であり、1960年代は本名の宗一(そういち)で活動していた[1]トヨタ自動車と専属契約を結んだ「ワークスドライバー」として、1960年代から1980年代にかけて国内外の様々なレースカテゴリーで活躍した。1974年1975年にはマカオグランプリの「ギアレース」を2連覇し、「マカオの虎」と呼ばれた。

1982年にレーシングドライバーを引退して以降は、1974年に設立したトヨタ系の名門レーシングチーム、及びトヨタ車のチューニングパーツ製造会社として著名な「トムス」の経営に専念している。また、JAF登録のモータースポーツクラブとして最も長い歴史を持つ「トヨタ・モータースポーツ・クラブ(TMSC)」の会長も務めている。長男の舘信吾もレーサーだったが、1999年に全日本GT選手権のテスト中の事故で亡くなっている。
略歴

1964年 -
立教高校在学中、学友と共にロッドベンダーズというレーシングチームを結成し、ジムカーナなどに出場[2]。ロッドベンダーズの仲間には、三村建治マキF1設計者)、小平基(後にTMSCに加入)、若松孝太郎などがいた。

1965年 - 立教大学在学中にトヨタパブリカでレースデビュー。

1968年 - トヨタ・モータースポーツ・クラブに入会。

1971年 - トヨタ・ファクトリードライバーとしてトヨタ自動車と専属契約。

1972年 - 日本グランプリ富士においてセリカにて優勝。

1974年 - 株式会社トムスを設立し代表取締役社長に就任。
トムス」も参照

1974年・1975年 - セリカをドライブしマカオグランプリのツーリングカーレース(ギアレース)を2連覇し、「マカオの虎」と呼ばれる[3]

1982年 - 現役レーサーを引退し、チームオーナーに専念。

1987年 - トヨタ自動車のモータースポーツ復帰により、トヨタ自動車のワークスチーム「トヨタ・チーム・トムス」の監督に就任。
トムスの中嶋一貴のマシン(スーパーフォーミュラ/2014年)

1991年 - 全日本F3選手権において監督としてシリーズチャンピオンとなり、以後7回獲得した。トムスに所属したジャック・ヴィルヌーヴペドロ・デ・ラ・ロサ高木虎之介中嶋一貴らはその後F1まで登りつめたほか、ミハエル・クルムピーター・ダンブレックなど各カテゴリーのトップドライバーを多数輩出している。

1994年・1998年 - 全日本ツーリングカー選手権において監督としてシリーズチャンピオンを獲得。

1997年 - 全日本GT選手権において監督としてシリーズチャンピオンを獲得。

2006年・2009年 - SUPER GTにおいて監督としてシリーズチャンピオンを獲得。

2010年 - 第22回参議院議員通常選挙みんなの党の比例代表より出馬するも落選。

2011年 - フォーミュラ・ニッポンにおいて監督としてシリーズチャンピオンを獲得。

2013年?2015年 - スーパーフォーミュラにてチームタイトル3連覇。

2017年 - SUPER GTにて監督としてシリーズチャンピオンを獲得。

脚注^ 「日本レース史の断章 舘信秀[後編]」『ノスタルジック・ヒーロー 2012年8月号(通号152)』、芸文社、2012年
^ 当時は16歳で軽自動車免許が取得できた。
^ " ⇒マカオグランプリの歴史". ヨコハマタイヤ. 2016年11月15日閲覧。

外部リンク

TOM'S RACING

トムス舘会長インタビュー - GAZOO.com

関連項目

関谷正徳

岡本佳織

SUPER GT

スーパーフォーミュラ


更新日時:2019年4月12日(金)19:17
取得日時:2020/03/06 11:45


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