舎人親王
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舎人親王
舎人親王像模本
時代飛鳥時代奈良時代
生誕天武天皇5年(676年
薨去天平7年11月14日735年12月2日
別名舎人皇子
諡号崇道尽敬皇帝
尽敬天皇
官位一品知太政官事太政大臣
父母父:天武天皇、母:新田部皇女
兄弟高市皇子草壁皇子大津皇子忍壁皇子穂積皇子長皇子弓削皇子磯城皇子、舎人親王、新田部親王
当麻山背
三原王淳仁天皇
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舎人親王(とねりしんのう)は、飛鳥時代から奈良時代にかけての皇親政治家天武天皇の第六皇子で、淳仁天皇(淡路廃帝)の父。天武天皇の諸皇子の中で最後まで生き残り、奈良時代前期に長屋王とともに皇親勢力の中心的存在として重用された。『日本書紀』編修事業の総裁を務めたことでも知られる。名は舎人皇子(とねりのみこ)とも記され、薨後に淳仁の父として崇道尽敬皇帝(すどうじんきょうこうてい)の諡号を贈られた。子孫の清原氏高市皇子裔の高階氏とともに、天武系の後裔氏族として長く血脈が続いた。
経歴

天武天皇5年(676年)天武天皇の皇子として誕生。母は新田部皇女

持統天皇9年(695年浄広弐に叙せられ、大宝元年(701年)の大宝令の制定に伴う位階制度への移行を通じて二品となる。

養老2年(718年一品に昇叙される。翌養老3年には元正天皇より異母弟の二品・新田部親王とともに皇太子・首皇子(のち聖武天皇)の補佐を命じられ、また皇室の年長者として褒賞されそれぞれ内舎人大舎人衛士封戸を与えられた[1]。養老4年(720年)5月に自らが編集を総裁した『日本書紀』(紀30巻・系図1巻)を奏上する[2]。同年8月には当時の朝廷最大の実力者であった右大臣藤原不比等薨去に伴って、舎人親王は知太政官事に就任して太政官の首班に立ち、知五衛及授刀舎人事・新田部親王および右大臣(のち左大臣)・長屋王とともに皇親政権を樹立する。

神亀元年(724年聖武天皇即位に際し、封500戸を加えられる。聖武朝に入ると、舎人親王は次第に藤原氏寄りに傾斜した活動を行い、結果的に藤原四子政権の成立に協力する形となった。

神亀6年(729年)2月に起こった長屋王の変では新田部親王らと共に長屋王を糾問し、自害させる[3]

神亀6年(729年)8月に藤原不比等の娘・光明子の立后の勅を宣べる[4]

天平3年(731年)8月には公卿らが死亡や病気によって政務を処理できなくなっているとして、政務に耐えうる人材を推薦するよう勅を宣べる[5]。この結果、藤原宇合麻呂兄弟ら6名が新たに参議に任官して、藤原四兄弟全員が議政官に加えられた[6]

藤原氏の勢力拡大を認める一方で、長屋王の変の2か月後「舎人親王が朝庁に参入する時、諸司は之(親王)の為に座を下りることなかれ」[7]という太政官処分を受けた。この処遇については「長屋王の変の連座」「藤原氏による長屋王に続く皇親勢力の抑制策」など長屋王の変の影響が考えられる。

天平7年(735年)9月にともに皇親政治を支えた新田部親王が薨じるが、舎人親王はその邸宅に遣わされて天皇の弔意を伝える[8]。そのわずか1か月半後の11月14日に天然痘が蔓延する平城京で、後を追うように薨去。享年60[9]。最終官位は知太政官事一品。葬儀太政大臣に準じた形式で行われ、皇族全員が参列したという。即日太政大臣の官職を贈られた[10]


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