興良親王(おきよししんのう / おきなが - 、嘉暦元年(1326年)[1]? - 没年不詳[2])は、南北朝時代の南朝の皇族。後醍醐天皇の孫にして、大塔宮護良親王の王子。母は権大納言北畠師重の女(親房の妹)である[3]。南朝から征夷大将軍に任じられ、大塔若宮・兵部卿若宮・宮将軍・赤松宮と号した。名は陸良[4]とも。
名前の読みが二種類あることについては、後醍醐天皇の皇子名の読みを参照。 延元元年/建武3年(1336年)建武政権が崩壊すると、後醍醐天皇に供奉して山門の指揮官を務めたが、8月八幡山(京都府八幡市)に移り、11月には和泉巻尾山(大阪府和泉市)に拠って紀伊粉河寺へ兵力を求めた。やがて後醍醐天皇の猶子となって親王宣下を受け、次の後村上天皇が践祚すると程なく征夷大将軍に補任された[5]。時に東国では常陸合戦の最中であり、その在地武士の結集を図る必要性から、興国2年/暦応4年(1341年)夏に常陸国に下向して小田城の北畠親房に迎え入れられた。同年11月城主小田治久が武家方へ降ったため、春日顕時に奉じられて大宝城
経歴
吉野へ戻った後は再び和泉に現れ、正平3年/貞和4年(1348年)1月四條畷の敗戦の際には、諸将を招集してその善後策を講じるも奏功せず、正平6年/観応2年(1351年)7月南朝に帰順した赤松則祐に奉じられ、播磨周辺諸国における宮方の中核勢力になった。翌年(1352年)則祐が変心した後は京都に送られて幽閉されたが、やがて但馬の本庄・波多野氏ら南朝勢により救出されて高山寺城(兵庫県丹波市)に入り、但馬・丹波両国を制した。さらに山陽道に進出し、摂津甲山(兵庫県西宮市)で則祐と交戦するも、本庄氏の戦死で宮方軍は敗れ、興良も河内に落ち延びたという。その後しばらく天皇の許に留め置かれたが、正平15年/延文5年(1360年)4月、南朝に帰順した赤松氏範を配下に吉野十八郷の兵が与えられると、興良は氏範と共に将軍足利義詮に通じて銀嵩(銀峯山)で反旗を翻し、南朝の賀名生行宮を攻撃して御所宿舎を軒並み焼き払った。南朝では二条前関白(教基か)を大将軍としてこれに抗戦させたため、興良の兵は離散し、興良も氏範により南都へ落ち延びさせられた[7]というが[8]、以後の消息は明らかでない[2]。
興良の墓と伝えるものには、兵庫県姫路市香寺町須加院にある親王塚(.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度54分14.5秒 東経134度42分13.5秒 / 北緯34.904028度 東経134.703750度 / 34.904028; 134.703750 (親王塚))や奈良県野迫川村北股にある田村塚(将軍塚)などが知られている。 『桜雲記』『信濃宮伝
俗説