興奮毒性(こうふんどくせい、英: excitotoxicity)とは、正常範囲では必要かつ安全なグルタミン酸などの神経伝達物質が病理学的な高濃度状態となり、受容体の過剰刺激によって神経細胞が損傷したり死滅したりする現象である。例えば、NMDA受容体やAMPA受容体などのグルタミン酸受容体が興奮性神経伝達物質であるグルタミン酸の過剰量存在下に置かれると、神経細胞には大きな損傷が生じる可能性がある。過剰なグルタミン酸は、細胞内に高濃度のカルシウムイオン(Ca2+)を流入させる。細胞内に流入したCa2+は、ホスホリパーゼ、エンドヌクレアーゼ、プロテアーゼ(カルパインなど)を含む多数の酵素を活性化する。これらの酵素は、細胞骨格の構成要素、細胞膜、DNAなどの細胞構造を損傷する[1][2]。生命のような進化した複雑適応系では特定の機構が単純かつ直接的なものであることは稀であり、例えば、毒性量以下のNMDAへの曝露は毒性量のグルタミン酸に対する神経細胞の生存を誘導するなど、複雑な応答が観察される[3][4]。
興奮毒性は、がん、脊髄損傷、脳卒中、外傷性脳損傷、聴覚障害(音響外傷や薬剤性難聴(英語版))、中枢神経系の神経変性疾患(多発性硬化症、アルツハイマー病、筋萎縮性側索硬化症(ALS)、パーキンソン病)、アルコール依存症、アルコール離脱症候群、高アンモニア血症(英語版)、そして特に急激なベンゾジアゼピン離脱とハンチントン病に関係している可能性がある[5][6]。脱水はシナプス間隙のグルタミン酸濃度を高めるので避けるべきであり[7]、またシナプス周辺へのグルタミン酸の蓄積はてんかん重積状態(status epilepticus)も引き起こす[8]。 中枢神経系に対するグルタミン酸の有害な影響は1954年に林髞によって観察され、グルタミン酸の直接投与によって発作が引き起こされることへの言及がなされた[9]。1957年にD. R. LucasとJ. P. Newhouseは「致死量よりやや少ない」とされる皮下投与量で新生児マウスの網膜内層の神経細胞が破壊されることを観察した[10]。1969年、John Olney
歴史
2002年、Hilmar Badingらは興奮毒性がシナプス結合の外部に位置するNMDA受容体の活性化によって引き起こされることを発見した[12]。このシナプス外NMDA受容体による有毒なシグナル伝達の分子基盤も2020年Hilmar Badingらによって明らかにされ、シナプス外NMDA受容体とTRPM4からなる細胞死シグナル伝達を促進する複合体について記載がなされた[13]。NMDAR/TRPM4相互作用面阻害剤(NMDAR/TRPM4 interaction interface inhibitor)を用いてこの複合体を破壊することで、シナプス外NMDA受容体の毒性は消失する。 興奮毒性は体内で産生される物質(内因性興奮毒)によって生じることもある。グルタミン酸は脳内の興奮毒の最も典型的な例であり、哺乳類の中枢神経系における主要な興奮性神経伝達物質でもある[14]。正常条件下では、グルタミン酸濃度はシナプス間隙で最大1 mMまで上昇し、数ミリ秒後には迅速に低下する[15]。シナプス間隙周辺のグルタミン酸濃度が低下しなかったり、より高いレベルに達したりした場合には、神経細胞はアポトーシスと呼ばれる過程で自ら死を引き起こす[16][17]。 この病理学的現象は、脳損傷や脊髄損傷の後にも生じる。脊髄損傷後数分以内に、グルタミン酸は傷害部位の損傷した神経細胞から細胞外空間へ漏れ出し、シナプス前グルタミン酸受容体を刺激してさらなるグルタミン酸の放出を引き起こす[18]。細胞外のグルタミン酸レベルの上昇はミエリン鞘やオリゴデンドロサイトに位置するCa2+透過性のNMDA受容体の活性化を引き起こし、オリゴデンドロサイトはCa2+の流入とその後の興奮毒性の影響を受けやすい状態となる[19][20]。細胞質基質の余剰なカルシウムによって引き起こされる有害な影響の1つは、切断型カスパーゼによるプロセシングを介したアポトーシスの開始である[20]。他の影響としては、ミトコンドリア膜透過性遷移孔
病態生理
外傷性脳損傷による不十分なATP産生は、特定のイオンの電気化学的勾配の消失を引き起こす。グルタミン酸トランスポーターが細胞外空間からグルタミン酸を除去するためには、こうしたイオン勾配の維持が必要である。イオン勾配の喪失はグルタミン酸の取り込みを停止させるだけでなく、トランスポーターの逆送も引き起こす。神経細胞やアストロサイトのNa+-グルタミン酸トランスポーターはグルタミン酸の輸送を逆転させ、興奮毒性を誘発する濃度のグルタミン酸を分泌し始める[23]。その結果、グルタミン酸は蓄積し、グルタミン酸受容体の活性化はさらに損なわれる[24]。
分子レベルでは、カルシウムの流入は興奮毒性によって誘導されるアポトーシスを担う唯一の因子ではない。グルタミン酸曝露や低酸素/虚血状態によって引き起こされるシナプス外のNMDA受容体の活性化はCREBタンパク質の遮断を引き起こし、ミトコンドリアの膜電位の喪失とアポトーシスを引き起こすことが指摘されている[25]。一方、シナプスのNMDA受容体の活性化ではCREB経路が活性化され、脳由来神経栄養因子(BDNF)が活性化されてアポトーシスは活性化されなかった[25][26]。