興国寺城
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興国寺城
静岡県
興国寺城空堀
別名根古屋城
城郭構造連郭式平山城
天守構造不明
築城主不明
築城年15世紀後期
主な城主北条氏、武田氏、松平氏
中村氏、天野氏
廃城年慶長12年(1607年
遺構石垣、土塁、空堀、曲輪、天守台
指定文化財国の史跡
位置北緯35度8分29.22秒
東経138度48分25.35秒
地図 興国寺城

興国寺城(こうこくじじょう、根古屋城とも)は、静岡県沼津市根古屋(駿河国駿東郡阿野荘)にあった日本の城平山城)。城跡は国の史跡に指定されている。興国寺城敷地内には穂見神社が存在する。
目次

1 地勢

2 構造

3 歴史

4 遺構・遺物

4.1 遺構

4.1.1 伝天守台

4.1.2 本丸

4.1.3 土橋・空堀

4.1.4 二の丸

4.1.5 三の丸

4.1.6 北曲輪

4.1.7 大空堀

4.1.8 清水曲輪


4.2 出土品


5 ギャラリー

6 アクセス

7 出典

8 参考文献

9 関連項目

10 外部リンク

地勢

興国寺城は静岡県東部の愛鷹山南麓に位置している。愛鷹山南麓の地形は連続した傾斜面となっているが、興国寺城付近は谷底平野を一部伴った侵食谷によってブロック状に緩斜面が分断されている。また山麓部から低地への移行部には小扇状地が形成され、旧浮島ヶ原の低湿地につながっている。興国寺城の立地は、城の東西は開析された侵食谷の深さと谷壁部分の急斜面、そして南方の浮島ヶ原の低湿地を天然の要害として利用した、地形を生かした典型的な城郭の立地といえる[1]

愛鷹山麓には東西方向に根方街道が通っている。また興国寺城の直下から浮島ヶ原を通って千本浜方面へ向かう竹田道があり、興国寺城は東西方向と南北方向の道が交わる、交通の要衝に築造された[2][3]

また愛鷹山南麓は厚いローム層に覆われている。興国寺城を構成する各曲輪の地表は、おおむね中部ローム上面、黒色帯、スコリア層のいずれかとなっている。これらは硬い地層であるために地盤改良の必要性が低く、愛鷹山南麓のローム層の特徴を生かした築城が行われている[4]
構造

興国寺城は北側から北曲輪、伝天守台、本丸、二の丸、三の丸、そして東側の清水曲輪によって構成される連郭式の城である[5][6]。江戸時代初期に描かれたと推定される、興国寺城の最終期のものであると考えられる絵図面が残されているが、絵図面の記載はおおむね現存する興国寺城に一致するものの、北曲輪、清水曲輪については記載されておらず、江戸時代初頭の段階では北曲輪、清水曲輪は使用されなくなっていたものと考えられている[7]

発掘調査の結果、興国寺城で最も古い段階は一番南側の根方街道沿いの三の丸を中心として、二の丸から本丸南端の虎口付近でまでであったと考えられている。出土した遺物から三の丸は16世紀半ば頃までに築城されていたと考えられ、当時の城は沼地に突き出るような地形であったと考えられている。本丸の排水路の石組みからは宝篋印塔を転用しているのが検出されていて、後述の今川義元が天文18年(1549年)、興国寺に移転を命じ、その跡地に興国寺城を築城したという記録との関係性が注目される[8][9]

その後、興国寺城は北側に城域を拡大したものと考えられる。16世紀後半台には城の南限は二の丸、北限は北曲輪となったものと見られている。また東側の清水曲輪も16世紀後半台から興国寺城の城域となったと考えられている。この時期の築城の主体は、丸馬出し、三日月堀の存在から武田氏によるものであることが想定されている。16世紀後半台、北条氏との攻防が激化する中で、防御性を高めるために山側にシフトした形で改築されたものと考えられている[10][9]

続く徳川氏の時代、三の丸から北曲輪、そして東側の清水曲輪と、興国寺城の城域が最大規模となったと考えられている。武田氏の滅亡後、駿河の徳川氏支配が確立すると、現在の静岡県域では拠点となる城郭に機能を集中する動きが確認されており、興国寺城も多くの軍勢が駐屯可能な徳川氏の拠点のひとつとして改修されたと考えられている。また大兵力を動員した小田原攻めが興国寺城の拡張、改築に影響した可能性が指摘されている[11][9]

その後、豊臣家の支配時代になると、現在の興国寺城の遺構と同じく、伝天守台を北限、三の丸が南限という形となったと見られている。この時期には北曲輪、清水曲輪は城外となった。豊臣家の時代は関東に移封した徳川家康に対する押さえという意味があり、興国寺城の存在意義があったものの、関ヶ原の戦い後になると興国寺城の存在意義は小さくなり、東海道や根方街道から見える場所に石垣や天守を設けるなど、見せる城としての様相が濃くなっていた。大空濠もこの時期の遺構であると考えられている。天野康景の出奔後、慶長12年(1607年)に興国寺城は廃城となるが、これは興国寺城の重要性が低下していたことによると考えられている[12][9]
歴史

沼津は戦国時代今川氏武田氏北条氏という三戦国大名による激しい争奪戦が繰り広げられた。支配者の交代も頻繁であり、各勢力の最前線として多くの城郭が築城された。そのような中で興国寺城は各勢力によって盛んに改修が行われていった[13][14]

『今川記』、『北条記』によれば、長享元年(1487年)、室町幕府官僚であり今川氏の客将であった伊勢新九郎盛時(北条早雲)が、今川氏の家督争いでの活躍により富士下方十二郷を与えられ、興国寺城を本拠地としたとされている[15][16]。その後、早雲は、幕府管領細川政元足利義澄の将軍擁立と連動して伊豆に侵入し、伊豆国を治めていた堀越公方の子・足利茶々丸を将軍・足利義澄の母と弟の仇として討つという大義名分のもとに滅ぼし、伊豆国の領主となって韮山城に移ったとしている[17]

上記のように興国寺城は長享元年から北条早雲が伊豆に移るまでの間、本拠地としていたというのが定説であるが、北条早雲が興国寺城を本拠地としていたことを示す同時代の史料は見つかっていない。同時代の史料で興国寺城が確認出来るのは、後述する天文18年(1549年)、今川義元が駿河国善得寺(富士市今泉)の末寺である興国寺に、築城用地とするために移転を命じた文書が初出となる。また北条早雲が今川氏から与えられたとされる富士下方十二郷とは富士市北東部に当たり、沼津市の市域となる興国寺城がその範囲に含まれるかどうかについてははっきりとせず、興国寺城は早雲の領地外であった可能性がある。このように長享元年に北条早雲が興国寺城に本拠を定めたことについては確証が持てない[18][19]。これについて小和田哲男は興国寺城の西隣りにある方形の遺構を早雲期の城館と推定し[20]、伊礼正雄は現城跡のうち三の丸を除いた部分を早雲期に利用していたのではないかと考えている[21]

この城のある駿東郡の地は、今川・武田北条各氏が奪い合った。天文5年(1536年)、当時北条氏と敵対関係にあった武田信虎今川義元が和睦したことに不満をもった北条氏綱が駿東郡に進出し、北条氏の支配下に入った。『甲陽軍鑑』によると翌天文6年(1537年)に興国寺城を守っていた北条方の城番・青地飛騨が武田信虎に寝返って同氏の被官となり、興国寺城はその後行われた今川義元と信虎息女の婚姻に際して化粧料として今川方に引き渡されたというが、定かではない。


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