興仁親王
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崇光天皇
北朝第3代天皇
在位期間
1348年11月18日-1351年11月26日
元号貞和
観応
先代光明天皇
次代後光厳天皇

誕生建武元年4月22日1334年5月25日
崩御応永5年1月13日1398年1月31日))
陵所大光明寺陵
父親光厳天皇
母親藤原秀子
子女伏見宮栄仁親王
興信法親王
瑞室
弘助法親王
皇居京都御所
親署
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崇光天皇(すこうてんのう[1]建武元年4月22日1334年5月25日) - 応永5年1月13日1398年1月31日))は、南北朝時代北朝第3代天皇(在位:正平3年10月27日1348年11月18日) - 正平6年11月7日1351年11月26日))。を益仁(ますひと)といい、後に興仁(おきひと)と名乗った。


目次

1 系譜

1.1 系図


2 略歴

3 諡号・追号・異名

4 在位中の元号

5 陵・霊廟

6 脚注

7 参考文献

8 関連項目


系譜

光厳天皇の第一皇子。母は、陽禄門院(内大臣正親町三条公秀の娘秀子)。

典侍:庭田(源)資子(按察典侍) - 庭田重資女

第一皇子:栄仁親王(1351-1416) - 伏見宮

第二皇子:興信法親王(1358-1391)


女御:安福殿女御

宮人:三条局

第一皇女:瑞宝女王

第三皇子:弘助法親王


系図

持明院統
北朝〕            【大覚寺統
南朝〕 

                        

                96 後醍醐天皇    

                         
     
光厳天皇 北1 光明天皇 北2        97 後村上天皇    

                            
                  
崇光天皇 北3     後光厳天皇 北4    98 長慶天皇 99 後亀山天皇 惟成親王
護聖院宮家

                          

栄仁親王     後円融天皇 北5    (不詳)
玉川宮家〕 小倉宮恒敦
小倉宮家

                         

貞成親王
(後崇光院)     100 後小松天皇 北6            

                          
     
102 後花園天皇 貞常親王
伏見宮家〕 101 称光天皇            

                        



略歴

光厳天皇の第一皇子として誕生したが、北朝が成立した際、父である光厳上皇は興仁(崇光)ではなく花園法皇の皇子である直仁親王の立太子を望んだ。だが、光厳上皇に実子があるにも関わらず、従弟の直仁の擁立に異論を挟む廷臣が多く、光厳もやむなく興仁を立てることとし、暦応元年(1338年)に立太子される[2]

貞和4年(1348年10月27日に叔父の光明天皇から譲位され即位。父である光厳上皇が院政を執った。皇太子には直仁親王が立てられた。実は直仁は光厳上皇が花園法皇の妃との間に産ませた子供であり、直仁の母が赤橋登子足利尊氏の正室)の遠縁にあたることから、光厳上皇は幕府との関係によって直仁の子孫が皇位を継ぐのが望ましく、崇光天皇を「一代主」として位置づけようとしたのである[3]

その後、足利家の内紛から観応の擾乱が起こると、観応2年(正平6年、1351年)には尊氏が南朝に帰順することで正平一統が成立し、北朝は消滅。11月7日にいたって正式に廃位された。

正平7年(1352年)2月、南朝は京都から足利義詮の軍勢を排除して占領下においた。このとき、光厳・光明・崇光の3上皇及び廃太子直仁ら北朝の主だった皇族は南朝の本拠である賀名生へ拉致された。正平一統は破綻し、北朝は天皇の候補者となる皇子・次期天皇の任命権者である上皇(治天)のいずれも南朝方に連れ去られてしまったため、再興に多大な困難が生じた。たまたま南朝による拉致をまぬがれた光厳の第3皇子弥仁が擁立され、祖母広義門院が光厳に代わって任命する形式をとって即位した。これが後光厳天皇である。

賀名生に移された上皇3名と直仁親王は、正平9年(1354年)3月には河内金剛寺に移され、塔頭観蔵院を行宮とされた。10月になると南朝の後村上天皇も金剛寺塔頭摩尼院を行宮とした。だが、正平10年(1355年)には光明上皇のみ京都に返される。

金剛寺で3年あまりの抑留生活を送るが、南朝勢力が衰微して講和へ傾くようになると、正平12年(1357年)2月に光厳院、直仁親王とともに帰京する。不測の事態で皇位を追われた崇光院と、やはり偶然に皇位についた後光厳との関係は微妙なものがあり、応安3年(1370年)8月にいたって後光厳が自らの子息緒仁への譲位を望むと、両者の関係は決裂した。即位の事情から天皇としての正統性を疑われており、緒仁を正式に皇太子に立てることもできなかった後光厳に対し、崇光は自らの皇子栄仁の即位を要求して争った(直仁親王は既に出家)が、管領細川頼之が指導する幕府の不介入方針もあって、最終的には後光厳に押し切られ、後光厳から緒仁への譲位が実現した。後円融天皇である。さらに永徳2年(1382年)4月に後円融が皇子幹仁(後小松天皇)に譲位しようとしたときも、崇光は栄仁の即位を要求したが、このときは逆に将軍足利義満が積極的に紛争に介入し、後円融を強く支持したため、栄仁の即位は実現しなかった。

応永5年(1398年)1月13日、失意のうちに65歳で死去した。

なお、没後30年目の正長元年(1428年)、貞成親王の子で、崇光の曾孫に当たる彦仁王(後花園天皇)が、二人の息子に先立たれて後継者を失った後小松院の猶子として即位し、崇光の皇統が復活した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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