與止日女神社
境内
所在地佐賀県佐賀市大和町大字川上1
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯33度19分34.7秒 東経130度16分6秒 / 北緯33.326306度 東経130.26833度 / 33.326306; 130.26833
與止日女神社(よどひめじんじゃ、与止日女神社)は、佐賀県佐賀市にある神社。式内社、肥前国一宮で、旧社格は県社。
「淀姫神社」とも表記され、別称として「河上神社」、通称として「淀姫さん」とも呼ばれている。 『肥前国風土記』逸文(神名帳頭注)によれば、欽明天皇25年(564年?)11月1日に與止姫の神が鎮座したという。世田姫神社の北に川上があり鮎や謂魚が逆流して潜ったりしていたとあり、同書に収録された川にまつわる説話から、水神信仰として成立したものと見られている[1]。 延長5年(927年)の『延喜式』神名帳では肥前国佐嘉郡に「與止日女神社」と記載され、式内社に列した。弘長元年(1260年)に最高位の正一位の神階を授けられた。 平安時代には、肥前国では田島坐神社(現 田島神社)が安全航海の神として崇敬され、神階も当社より上で『神名帳』では肥前国唯一の大社に列していた。しかしながら、中世以降は国衙に近い当社の実質的地位が高まり、肥前国一宮として崇敬されたという[2]。応保年間(1161年?1163年)には肥前国一の宮になり、弘長元年(1261年)正一位を受けた[3]。ただし、後述のように千栗八幡宮も一宮を称している。 弘安の役(1281年)では與止日女大神の神霊が敵の船を摧いたと伝えられる。 慶長7年(1602年)に後陽成天皇が自ら「大日本国鎮西肥前州大一之鎮守 宗廟河上山正一位淀姫大明神一宮」と宸筆した勅額を賜る(本殿に現存:非公開)[4]。すなわち当社が肥前国一宮であるとするものであるが、千栗八幡宮も肥前国一宮とされていたことから、両社の間で60年にわたる紛争が起こった。 古記録によると、本殿、幣殿、拝殿は、文化10年(1813年)に焼失し、文化13年(1816年)に鍋島家により再建された[3]。 明治4年(1871年)には近代社格制度において県社に列した[3]。国幣社への昇格も進められていたが、第二次世界大戦の終結により実現しなかった。 佐賀県を中心とする北九州地方には、與止日女神(淀姫神)を祀る神社が多数あり、そのうち当社を含めた6社が嘉瀬川流域にある。 境内は嘉瀬川そばの右岸に位置する。西門は元亀4年(1573年)造営で県の重要文化財に、三の鳥居は慶長13年(1608年)造営の肥前鳥居で市の重要文化財に指定されている。一の鳥居は立石交差点付近に立つ(北緯33度18分28.75秒 東経130度15分50.15秒 / 北緯33.3079861度 東経130.2639306度 / 33.3079861; 130.2639306 (一の鳥居) 拝殿内に天井絵馬、三十六歌仙絵札額、奉納額などがある。天井絵馬は、祭神の與止日女命は一節によると豊玉姫ともいわれ、豊玉姫と関係ある「山幸彦海幸彦縁起絵巻」と境内社の天満社にちなむ「菅原道真公絵巻」の2巻から構成された250枚からなっている。
歴史
創建
概史
神階
六国史
貞観2年(860年)2月8日、従五位下から従五位上 (『日本三代実録』) - 表記は「予等比涛V神」。
貞観15年(873年)9月16日、正五位下 (『日本三代実録』) - 表記は「予等比盗_」。
弘長元年(1260年)、正一位
祭神
與止日女命 (よどひめのみこと)神功皇后の妹という。また一説に、豊玉姫であるとも伝える[5]。『肥前国風土記』逸文(神名帳頭注)には、「與止姫神」のまたの名を「豊姫」「淀姫」というとある。また、同書佐嘉郡条には「世田姫」の説話が載り、同一神と見られている[2]。
境内社
與止日女天満宮:菅原道真公を祀る。
境内
一ノ鳥居(境外に建つ)
二ノ鳥居
三ノ鳥居 - 肥前鳥居:市指定重要文化財
西門 - 県指定重要文化財
拝殿・中殿・本殿
拝殿:正面五間、側面三間、入母屋造、唐破風付、別棟神饌所付中殿:正面一間、側面四間本殿:五間社流造、側面四間
境内社 與止日女天満宮