logo臼杵城
(大分県)
臼杵城跡(臼杵公園)
別名丹生島城、巨亀城、金亀城、亀城
城郭構造連郭式平山城(海城[1])
天守構造複合式望楼型3層(1601年築 非現存)[2][3]
築城主大友宗麟
築城年永禄5年(1562年)
主な城主大友氏、福原氏、太田氏、稲葉氏
廃城年明治6年(1873年)
遺構曲輪、畳櫓、卯寅口門脇櫓、石垣、空堀、堀
指定文化財大分県指定史跡
再建造物大門櫓
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯33度7分18.59秒 東経131度48分14.77秒 / 北緯33.1218306度 東経131.8041028度 / 33.1218306; 131.8041028
臼杵城(うすきじょう)は、大分県臼杵市にあった日本の城。城跡は大分県の史跡に指定されている。戦国時代、大友宗麟により臼杵城の前身となる「丹生島城(にうじまじょう)」が築かれ、大友氏の拠点となった。江戸時代には臼杵藩の藩庁が置かれた。 丹生島は北、南、東を海に囲まれ、西は干潮時に現れる干潟の陸地でつながるのみという天然の要害をなしていた。なお、「丹生」とは丹(に、鉱物の辰砂)が採取される土地を指し、丹生島とは「金属鉱石の産出する島」という意味である。大友義鎮(宗麟)は、この島一つを城郭化して干潟を干拓して城下を形成した。 城には3重の天守と31基の櫓が上げられた。総二階造り(上下階の平面が同規模)の重箱櫓と呼ばれる形状をした二重櫓が特徴的であった。廃藩後は天守以下建物は一部を残し取り壊され、周囲の海も埋め立てられた。現在、城郭主要部は都市公園として整備され、石垣、空堀が残る。また、二の丸に畳櫓が、本丸に切妻造りの卯寅口門脇櫓が、それぞれ現存する。 15世紀後半、大友氏の16代当主である大友政親が一時的に臼杵に本拠を置いたことが知られている[4]。政親は後に大内義興によって処刑され、本拠地も府内に戻されているが、その菩提寺である海蔵寺は現在の臼杵市内にあった(現在は遺構のみ)。 通説では永禄4年(1561年)、毛利氏との戦いに敗れた大友義鎮は、翌永禄5年(1562年)に臼杵湾に浮かぶ丹生島に新城を築き、大分府内大友館から移ったとされている。だが、1557年10月29日に宣教師のガスパル・ヴィレラからイエズス会に送られた書簡(『耶蘇会士日本通信』)には家臣の反乱(小原鑑元らによる「姓氏対立事件」)を避けるために丹生島に移った事が記されており、その後永禄年間初頭までの大友氏関係文書を分析しても義鎮が要人との会談や家臣の呼出を臼杵において行っており、そのまま「在庄(庄=丹生島がある臼杵庄 ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスの記録によると、城下には多くのキリスト教の施設が建立され城内には礼拝堂もあったとしている[7]。その後、田原親貫の反乱鎮圧のために天正7年(1579年)から2年ほど府内に政庁を戻しているものの一時的な措置であり、大友氏の改易まで臼杵に本拠地が置かれていたと考えられている[4]。 天正14年(1586年)の島津軍の侵攻(丹生島城の戦い)に対して「国崩し」と呼ばれたポルトガルから入手の大砲、「フランキ砲」を動員するなどして島津軍を退けたが、城も城下も大きく損失した。その翌年、大友義鎮は死去した。 文禄慶長の役にて、義鎮の嫡子義統が敵前逃亡の咎を受けて改易処分となり、かわって石田三成の妹婿である福原直高が3年の間居城。
概要
歴史
戦国時代
近世