臼井六郎
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臼井六郎

臼井 六郎(うすい ろくろう、1858年安政5年) - 1917年大正6年)9月4日)は、江戸時代末期(幕末)から大正時代にかけての士族秋月藩家老臼井亘理の長男。

日本史上最後の仇討をしたことで知られる。明治に改元される幕末最後の年に、藩内の政治的対立から暗殺された両親の仇討ちを13年後に果たしたが、明治政府が発布した仇討禁止令により犯罪者となり、裁判で懲役刑を宣告された。江戸時代であれば武士の誉れと称えられたものが、時代の変化により断罪されるという、明治維新の渦に翻弄された事件として世間を大いに賑わせた。
生涯
発端当時の雰囲気を残す秋月城下町の路地

慶応4年(1868年)5月23日、風雨が強いその日の深夜、一家が就寝中の臼井邸に忍び込んだ干城隊の手により、父・亘理と母・清子が惨殺された。七つ半(午前5時)頃、下女の知らせを受けた祖父・儀左衛門が脇差提灯を持って現場に駆けつける。

激しい妹の泣き声と騒々しい物音で起き出してきた11歳の六郎は、両親が殺害され、隣室で寝ていた3歳の妹・つゆが怪我を負った事を知らされる。両親の寝所に入る事を禁じられ、夢ではないかと呆然としていた所、縁側に張り付いた長い髪の毛と血に染まった骨を見つける。父母が本当に殺された事を悟った六郎は、その骨と髪の毛を取り集めて紙に包みながら父母の寝所に至った。そこには身体が肩から胸にかけて大きく切り裂かれ、首のない父の身体と、ズダズタに切り裂かれ、髪の毛に絡んだ血肉が襖や廊下に飛び散った母の姿があった。

この言語を絶する凄惨な光景を見て、六郎は父母が何故このような事になったのか、叔父の渡辺助太夫や親族に聞いた。助太夫は父・亘理には何の罪もない事、犯人は干城隊であると答えた。六郎は幼い身ながら、「骨髄二徹シ切歯憤怒二堪ヘズ必ズ復讐スベキ」と復讐を堅く誓った。

渡辺助太夫ら親族・知人が即日藩庁へ事件を届け出るが、訴えを受けた家老・吉田悟助は亘理が殺されたのは自業自得と切り捨てた。そして本来、首桶に丁重に納めて遺族に返されるべき首は、干城隊が屯所の庭に捨て置いたので、持って帰れと言い放った。父の首は、後に臼井邸の庭に投げ入れられたのが見つかった。

酔って熟睡している相手の寝込みを襲い、女子供にまで手をかけた干城隊の所業は、士道にも人の道にも外れた非道な行為であったにもかかわらず、7月8日に藩庁から出された裁定は、干城隊は「国家のため奸邪を除く赤心より出候事」「忠誠の士」として無罪、亘理に対しては「自分の才力を自慢し、国を思う気持ちが薄いその態度が今回の災いを招いたものであり、本来なら家名断絶に等しいが、家筋に免じて減禄に処す」という臼井家にとっては非常に理不尽なものであった。尊王攘夷の嵐が吹き荒れたこの時代、尊王を唱えれば非道な暗殺もすべて義挙とすり替えられたのである。

臼井家では嫡男の六郎がまだ幼いため、養子に出ていた亘理の長弟・渡辺助太夫が臼井家に戻って家督を相続する事になる。50石を減ぜられ、罪人のような扱いを受けるが、家を守るために臼井家は耐え忍ぶしかなかった。臼井家の親族や亘理を支持する藩士たちは、藩のあまりに理不尽な裁定を批難し、公正な藩政を求めて宗藩である福岡藩に訴え出るが、逆に訴えた側が罰せられ投獄されるという結果となり、亘理暗殺以降二つに割れた秋月藩は、そのまま明治となって武士の時代の終わりを迎える事になる。
復讐を誓う

叔父の渡辺助太夫は臼井慕と改名し、六郎の養父となる。六郎は仇の氏名を知ろうとするも、そのすべもなく悲嘆していた同年9月頃、通っていた稽古館干城隊士・山本克己(一瀬直久)の弟・道之助が級友3、4人を相手に自慢話をしているのを偶然聞いた。兄の克己が家伝の名刀を持ちだし、国賊・臼井亘理を斬殺して、名刀の歯を欠けさせたのだという。

六郎は天のお告げと家に飛んで帰って養父に父の仇が判明した事を報告し、復讐したいと申し出た。しかし養父は「復讐は大昔から国の大禁である。己で復讐をしたいのであれば、文武を学び、そのことわりを研究し、その後で己で決める事だ。軽々しく粗暴な挙動に出てはならない」と堅く戒めた。仇の山本家は丹石流剣術指南の家柄で、並の大人でも太刀打ちできる相手ではなかった。また吉田悟助ら干城隊一派の天下である今、不用意な言動は慎まなければならなかったのである。またある日投書があり、母の殺害犯は萩谷伝之進である事が判明した。父の殺害犯山本と共に名が書かれていて、世上の噂とも一致し、六郎は復讐の念を募らせて再三養父や親族に訴えるが、大人達はそれを許さず、学問をして志を堅くし、その後に自分で決める事であると諭した。六郎は心苦しみながらも、非道の敵を討つ事が自分の使命だと思い定め、父母の無念を晴らすべく武術と勉学に打ち込んだ。

事件の翌年、明治と改元、1871年(明治4年)7月14日、廃藩置県が発布される。亘理暗殺事件で秋月藩の非法を宗藩に訴えて福岡に幽閉されていた藩士11名が釈放され、その中に亘理の次弟である上野月下がいた。月下は身体が癒えると、秋月を嫌い東京へ出た。1872年(明治5年)、15歳になった六郎は密かに東京の月下に父の仇を知った事を書き送った。月下からの返事には、次兄・慕(助太夫)から聞いた話として、事件の真相が書かれていた。

御殿の門番の者が、山本克己の父・亀右衛門が息子への怒りを口にしていたのを聞いていた。亀右衛門は亘理の改革の支持者であったが、息子の克己が家伝の名刀を持ち出し、刃こぼれさせた理由を問いただすと、亘理暗殺に使った事を白状した。亘理を尊敬していた亀右衛門は怒り、息子を手討ちにしようとまで思ったが、亘理暗殺は家老・吉田悟助も合意の上での、いわば「上意討ち」であると言われ、それも出来なかったと嘆いたという。

この年に山本克己が東京に移住した事を知り、六郎はむなしく東の空を仰いだ。

1873年(明治6年)2月、「仇討ち禁止令」が出される。

1876年(明治9年)5月、19歳の六郎は三奈木小学校の教師となる。一刻も早く東京へ向かいたい六郎はその3ヶ月後、親族の木付篤が上京する事を知って、養父に東京に出て新しい学問を学びたいと申し出る。同行者もいる事から東京行きを許され、8月23日、父の形見の短刀を密かに携えて木付と共に秋月を旅立った。
東京へ

東京に着くと木付と別れ、東京西久保明船町(現・渋谷)に住む叔父・上野月下宅に寄宿した。それから間もない10月27日、秋月では士族による新政府への反乱・秋月の乱が起こった。首謀者は干城隊の幹部であり、事件は数日後に政府軍に鎮圧され、宮崎車之助ら幹部7人が自刃した事を新聞で知った六郎は、仇の一味に天罰が下ったのだと思った。

東京へは勉学修業といいながら、目的は一瀬直久と改名した仇の山本克己の居所を探る事であった。一瀬は旧福岡藩士の尊王攘夷派であった早川勇の伝で、愛知裁判所の判事として名古屋の裁判所に勤務している事がわかった。名古屋に飛んでいきたかったが、養父から貰った金も乏しく、東京の叔父の暮らしも楽では無かった。ある日、六郎は四谷仲町にあった山岡鉄舟の春風館道場の前を通りかかり、ここで住み込みの書生に雇ってもらおうと、翌朝早々に叔父を同伴して道場を訪れ、入門を許された。六郎は翌日朝早くから、道場の拭き掃除、庭や門前の掃除などよく働き、勉学に励み剣術修業に打ち込んで、鉄舟夫人・英子に可愛がられた。また鉄舟の友人・勝海舟邸に出入りする事もあった。

12月4日には逃亡していた秋月の乱の首謀者・今村百八郎益田静方が斬首刑となった事を新聞で知り、また仇に天罰が下った事に感謝した。

1877年(明治10年)2月、西南戦争西郷隆盛が自刃、さらに翌年には大久保利通暗殺と、明治維新の立役者たちの死去は、激動の時代の終焉を人々に思わせた。しかし六郎はそんな世の中の変遷を余所に、仇の居所を探る事に日々を費やした。養父・慕と叔父・月下に父母が被害にあった原因を知りたいと強く懇願し、10月に月下から返事が来て、初めて父の職務の事、暗殺事件での藩の理不尽な裁定など詳細を知り、父は職務を全うしたのみで非がない事、犯人側の残酷な行為が何ら罪に問われていない事を確信した。手紙には私怨の復讐は極力避けるべきだと叔父の言葉も書かれていたが、六郎は父の不幸を思い、復讐の志を一層堅くした。

上京している旧秋月藩士を訪ねては、さりげなく一瀬直久の居所を探った。一瀬は上京した旧秋月藩士の中で一番の出世組で話題に上る事が多く、六郎が消息を訪ねても怪しまれる事はなかった。

1878年(明治11年)春、21歳の六郎は一瀬が転任して静岡裁判所の判事となり、甲府支庁に勤めている事を知る。東京から急げば歩いて3日の距離であり、この朗報に小躍りした六郎は、すぐにでも甲州街道を走り出したい気持ちであったが、山岡鉄舟の書生の身であり、迷惑をかける訳にはいかず、口実を設けるため思案のすえ仮病を使うことにした。「最近撃剣を学んでおりますが、練習が過ぎて少々胸部を痛めたので、しばらくの間神奈川県武州小河内村の温泉で湯治したいと思います」と申し出て許された。

4月初旬、東京を発って甲州に赴き、旅館の一室を借りて一瀬が出歩きそうなところを探索してみたが一度も姿を現さない。一ヶ月も過ぎた頃、銭湯で「裁判所の所長さんは明日東京に行かれるそうな」という話を耳にした六郎は一瀬に違いないと翌朝宿を出て裁判所の門外にたたずみ、退庁するのを待ったが一瀬は現れない。翌朝も出かけたが同様の結果で、これは前日のうちに上京したのかと翌日、東京方面へ走ったが途中で一瀬に遭遇する事なく東京へ着いてしまった。5月初めの事で、その後も探索してみたが不調で、銭湯での噂は誤りであったと悔やんだ。6月になって再度甲府に行ってみたが、一瀬の姿を発見できず、路銀も尽きてきたため、東京に戻らざるを得なかった。生計のために11月に群馬県熊谷裁判所雇員として勤務するが、明治12年夏、夏期休暇に入ると一瀬が上京するのではないかと退職し、東京に戻って一瀬を待ったが見つける事は出来なかった。
明治13年

1880年(明治13年)、東京に出てきて4年が経ち、23歳になった六郎は仇の姿を見つけられないまま無念の日々を送っていたが、11月半ば、旧秋月藩士・手塚佑の家を訪ねると、一瀬が東京上等裁判所に転勤し、すでに東京に戻って本芝3丁目に住んでいる事を知る。六郎は時機到来を悦び、心構えのため、討ち損じて自分が討たれた場合には事情を話す事が出来ないので、復讐の理由を記した書面を肌身に付けた。

裁判所までの通勤道を朝夕出退時間を見計らって見回ったが、一度も一瀬と遭遇せず、住居が間違っているのかと思い裁判所の門前なら確実であろうと、また朝夕裁判所の門外に立ち毎日周辺を徘徊して要撃の機会を伺ったが、どうしても一瀬の姿は見えない。ところが12月13日に銀座鍋町を通行中、突然一瀬を見かけた。市中では手を出せないので、密かに後を追うと、尾崎某と表札のある家に入った。その帰途を狙うべく尾崎宅前を張っていたが、いつの間にか一瀬の姿を見失ってしまった。しかし東京にいる事は間違いないので、さらに注意して上等裁判所の門前で待ったが、2、3日経っても現れない。12月17日、いつものように上等裁判所前で一瀬を待ったが、10時になっても出勤しないのでその日は諦めて帰ろうとしたが、以前一瀬が時々碁を囲みに旧秋月藩主の黒田邸を訪れる事を思い出す。何が手掛かりが得られるかもしれないので、いつ一瀬に遭遇してもいいように短刀を忍ばせ京橋区三十間堀3丁目10番地(現・銀座6-15、6-16あたり)の黒田邸に向かった。
決行

黒田邸の1棟には家扶の鵠沼文見人が住んでいて、在京の秋月人が旧藩主へのご機嫌伺いに時々訪れていた。鵠沼の妻は六郎の伯母の長女・わかで、六郎の従姉妹にあたる。鵠沼の家を訪れた六郎は、留守だったので待たせてもらい、2階に上がった。2階は旧秋月藩士たちが集まる場所になっていて、いくつかの火鉢や机が置いてあった。そのうち鵠沼が戻り、無沙汰を詫び近況を報告した。幸い鵠沼は亘理暗殺事件のかなり後にわかと結婚したので、事件の事はあまり知らず、気安く世間話をしていると、階段を上がってくる足音がして、障子が開くとそこには一瀬の姿があった。六郎は思わず息をのむが、気配を悟られないよう顔を伏せた。一瀬は会釈して少し離れて座り、誰かを待つ風であった。六郎は懐の短刀に手を伸ばすが、階段から足音がして白石真忠と原田種中2人の旧藩士が入ってきた。この場で飛び出せば邪魔が入る事は確実で、この好機を逃すと積年の辛苦も水の泡になる、ならば帰途を狙うかと焦るが、一瀬が郵便を出すのを忘れていたと言い出した。階下の下男に頼んで来ると言い、その場の後輩たちが出して来ましょうかと言ったが、一瀬はそれを断って階段を降りていった。六郎ははやる気持ちを抑え、鵠沼に厠の場所を訪ねて、階下と聞くと「失礼」と部屋を出た。


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