致平親王
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致平親王
時代
平安時代中期
生誕天暦5年(951年
薨去長久2年2月20日1041年3月24日
改名致平(諱)→ 悟円(法名)
別名明王院宮、法三宮
官位四品兵部卿
門跡園城寺円満院開祖
父母父:村上天皇、母:藤原正妃
兄弟承子内親王、理子内親王、保子内親王規子内親王広平親王冷泉天皇、致平親王、盛子内親王為平親王楽子内親王輔子内親王昭平親王、緝子内親王、資子内親王、昌平親王、円融天皇選子内親王具平親王、永平親王
源雅信の娘
源成信、源致信、永円
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致平親王(むねひらしんのう)は、平安時代中期の皇族村上天皇の第三皇子。官位四品兵部卿
経歴

村上朝末の康保2年(965年清涼殿において元服。加冠を中納言源兼明が、理髪を頭中将源延光がそれぞれ務めた。同年に上野太守に任ぜられ、康保4年(967年四品に叙される。円融朝上総太守兵部卿大宰帥を歴任した。

天元4年(981年)に園城寺の余慶に従って出家。三井明王院に住み、智弁に師事した。法名を悟円といい、明王院宮・法三宮と呼ばれた。出家に際し、徽子女王中務から歌を贈られている。出家後約60年という長命を保ち、後朱雀朝長久2年(1041年)2月20日に薨去享年91。
官歴

康保2年(965年) 7月28日:見上野太守[1]。10月28日:元服[2]

康保4年(967年) 日付不詳:四品

安和2年(969年) 9月20日:帯剣[2]。9月23日:見上総太守[3]

天禄2年(971年) 日付不詳:兵部卿

貞元元年(976年) 正月20日:大宰帥[4]

天元4年(981年) 5月11日:出家(兵部卿四品)[2]

長久2年(1041年) 2月20日:薨去[5]

系譜

尊卑分脈』による。

父:村上天皇

母:藤原正妃(藤原在衡の娘) - 更衣

妻:源雅信の娘

男子:源成信(979-?) - 藤原道長養子

男子:源致信

男子:永円(980-1044)


系図

   

60
醍醐天皇 

                 
               
61 朱雀天皇 62 村上天皇 兼明親王 源高明 

                              
                               
広平親王 63 冷泉天皇 致平親王 為平親王 64 円融天皇 昭平親王 具平親王 

                               
     
    65 花山天皇 67 三条天皇     66 一条天皇     源師房


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