自衛隊海外派遣(じえいたいかいがいはけん)では、自衛隊の日本国外(海外)への派遣について記載する。1965年(昭和40年)のマリアナ海域漁船集団遭難事件の際に海上自衛隊が創設以来初の海外での災害派遣を実施した他[1]、1989年(平成元年)の冷戦終結による緊張緩和、及び1991年(平成3年)の初頭に勃発した湾岸戦争により、日本もそれまでの活動の枠を超えた積極的な国際協力を求められるようになり、自衛隊ペルシャ湾派遣を契機に本格的に開始した。「練習艦隊 (海上自衛隊)」も参照 各陸海空自衛隊は、国際社会では事実上の日本の軍隊と認識されつつも、設立当初より日本国憲法第9条の制約があり、専守防衛のための「必要最小限度の実力」として整備が進められた。海外展開能力は、それを超えるものとして忌避され、政府としても海外展開を行わないようにしてきた。発足直前の1954年(昭和29年)6月2日には、国会参議院で「自衛隊の海外出動を為さざることに関する決議[2]」(自衛隊の海外出動をしないことに関する決議)がなされた。1958年(昭和33年)には、国際連合レバノン監視団(UNOGIL)に停戦監視要員として自衛官10人の派遣を要請されるも、自衛隊法や(旧)防衛庁設置法に抵触する恐れがあるとして要請を拒否している[3]。 こののち、戦後20年の1965年(昭和40年)のマリアナ海域漁船集団遭難事件の際には、海上自衛隊は艦艇5隻、航空機11機を出動させ、アメリカ海軍の航空機、海上保安庁の巡視船及び捜索漁船とともに、創設以来初の海外での災害派遣を実施した[1]。その2年後の1967年(昭和42年)のイギリス領香港での暴動(六七暴動
概要
統合幕僚監部が設置されて以降の海外派遣の運用は、統合幕僚監部が担当することとなった。
これまでの自衛隊の海外派遣は、直接の武力行使を目的とせず、復興支援、地雷・機雷などの除去、災害救助、アメリカ軍の後方支援などを目的とする。
また、1992年(平成4年)に国際緊急援助隊の派遣に関する法律が改正されたのに合わせて国際緊急援助隊(JDR)としても派遣される。同年のPKO協力法成立とJDR法改正により、紛争に起因する戦災がPKO、それ以外の自然災害がJDRという区分になった。
なお、国際緊急援助隊の救助チームは災害救助の専門部隊を有する消防庁・警察庁・海上保安庁によって編成されており、国際緊急援助隊の自衛隊チームの任務は復興支援や医療支援、後方支援が任務である。自衛隊は災害派遣で災害救助を行うが、あくまでも陸上の災害現場での捜索救助は消防の専門であり自衛隊の専門ではない。
閣僚が外遊で海外へ行く際の周辺警備など、護衛のみを目的とした派遣は規定が無いため出来ないとされる[8]。 根拠となる法律、及び成立の契機となった事件を記す。2006年(平成18年)12月15日に成立した改正自衛隊法(第3条の2)などにより、海外派遣が付随任務から本来任務に格上げされた。
法律
1980年 9月 - イラン・イラク戦争
1991年(平成3年)1月 - 湾岸戦争
1991年(平成3年)12月 - ソビエト連邦の崩壊。
1992年(平成4年)6月 - 国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律(国際平和
1993年(平成5年) - 朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の核拡散防止条約(NPT)脱退、ノドン準中距離弾道ミサイル試射(北朝鮮核問題)。
1994年(平成6年)11月 - 改正自衛隊法成立。
1996年(平成8年)3月 - 中華民国(台湾)の李登輝総統就任による台湾海峡危機、中国人民解放軍の大規模演習。
1998年(平成10年)6月 - 改正PKO協力法成立。
1998年(平成10年)8月 - 北朝鮮がテポドン1号ミサイルを試射。
1999年(平成11年)3月 - 能登半島沖不審船事件
1999年(平成11年)5月 - 周辺事態に際して我が国の平和及び安全を確保するための措置に関する法律(周辺事態法)、防衛指針法(日米新ガイドライン法)成立。
2001年(平成13年)10月 - 対テロ戦争(アフガニスタン紛争 (2001年-2021年))始まる。