自由意志(じゆういし、英語: free will、ドイツ語: freier Wille、フランス語: libre arbitre、ラテン語: liberum arbitrium)とは、人間には、何からも影響(指図や制約)を受けずに、「何かを成そうとする気持ちや考え」を自由に生み出す能力がある、とする仮説である。 自由意志の問題とは、人間が、自発的に”意志”を生み出すことができるか否か、という問いであり、それはまた、人間に行動の自由があるかどうかにも関わってくる重要な問題である。
概要
自由意志の問題は自由と因果との関係、そして自然法則は因果的に決定しているのかどうかという、原理的あるいは本質的な問いであり、宗教的、倫理的そして科学的原理の絡み合いから成っている。例えば、宗教特にキリスト教やイスラム教などの一神教において、自由意志を認めることは、万能であるはずの神がその力を個々の意志に及ぼすことができないという宣言となるため、このような神はもはや万能とはいえなくなる(この矛盾を解決するために神学上の諸説が作られてきた)。また、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}倫理学においては、自由意志は、個々人は[要校閲]自身の行為に対して道徳的な説明義務を負っているとするが、意志が自分の自由にならないのであれば、意志を原因として発生する行為、さらに結果についても、いかなる責任も問うことはできなくなってしまい、自由という概念全体が消失する。
自由意志の問題は、哲学的思索が始まって以来、中心的な論点であった。一方、現代の脳科学の進展によって意志の形成過程が解明されつつあり、もはや自由意志を形而上学上の課題として片付けることは許されない段階に来ている。
科学の領域において自由意志を主張することは、脳と思考を含む身体の動作が物理的な因果律によって完全に規定されているわけではないということとほぼ同等であるが、「物理的な因果律ではない別の何か」とは一体何なのかについて具体的な説明は、現段階では乏しい。
いずれにせよ、「道徳を維持しようとする自由意志肯定派の力」と「決定論的な、自由意志否定派の科学的思考」との、二つの対立が顕在化する中で、様々な見方が生まれてきたのである。 自由意志の問題における哲学上の基本的な立場は、 という2つの質問に対して肯定するか否定するかで決まる。 決定論とは、おおざっぱに定義するならば、現在と未来のあらゆる事象は、自然法則と結び付いた過去の事象によって因果的必然性があるという見方である。決定論が真であることを受け入れ、それゆえ、人間が何らかの自由意志を有していることを拒絶する立場は、固い決定論と呼ばれる。一方で、決定論を否定し、自然法則を乗り越えるような自由意志を要求する立場は(哲学的)リバタリアニズムと呼ばれる[1]。このリバタリアニズムという用語は政治思想で用いられる意味とは異なるが、自由意志論で使われたのが先である[2]。 これら固い決定論者とリバタリアンはともに、決定論が自由意志の概念とは相容れないとする非両立論をとる。一方で、自由意志の存在と決定論が両立可能であるとする立場は、両立論と呼ばれる。両立論者は自由や自由意志という概念を、決定論と矛盾しないよう再定義し、切り詰めて理解し直そうとする[3][4]。
哲学における自由意志
決定論は真か?
自由意志はあるか?
両立論
非両立論
固い決定論:決定論を肯定し、自由意志を否定する。
リバタリアニズム:決定論を否定し、自由意志を肯定する。