自由党_(日本_1890-1898)
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日本政党立憲自由党/自由党
成立年月日1890年9月15日[1][2][3]
前身政党自由党[3][4]
愛国公党[3][4]
大同倶楽部[4]
九州同志会
解散年月日1898年6月22日[5]
解散理由進歩党との合同による新党結党[5]
後継政党憲政党[5]
政治的思想・立場自由主義[4]
民力休養・政費節減[2]
創設者:大井憲太郎
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自由党(じゆうとう)は、明治時代日本政党。結党時の党名は立憲自由党(りっけんじゆうとう)。
概要

人脈的な源流は、明治14年(1881年)に結成された同名の政党『自由党』(以下、「旧自由党」)にさかのぼる。旧自由党は、明治前期の自由民権運動の高まりの中で、帝国議会への進出を目標として、板垣退助を首班に結成されたが、党内の不満分子の暴発や政府の弾圧に耐えかねて明治17年(1884年)に解党、分裂した。

その後、旧自由党勢力の再結集運動(大同団結運動)を経て、帝国議会創設直前の明治23年(1890年)、同名の組織「自由党」(当初は"立憲自由党")として、再合流を果たした(本記事の自由党の法人格としての起源はこの時である)。

初期議会においては、立憲改進党とともに衆議院の二大勢力を構成しており、内閣を組織した政府、改進党と三つ巴の政局を展開し、第2次伊藤内閣では与党として国政に参画する。第3次伊藤内閣の時に国政復帰が藩閥政府側の都合で流れたことがきっかけで改進党と共闘し、明治31年(1898年)、改進党と合流、憲政党を結党するにあたり、自由党は解党した。
歴史

自由民権運動を牽引した旧自由党の解党後、その勢力は数派に分裂していたが、1890年(明治23年)7月1日の第1回衆議院議員総選挙において自由民権勢力(民党)が衆議院の過半数を獲得したのを契機に、合同の機運が高まる。9月15日、愛国公党(旧自由党を率いた板垣退助の直系、土佐派)、自由党大井憲太郎派、関東派)、大同倶楽部河野広中派)、九州同志会の4派が合同して立憲自由党が成立。衆議院では130名を占めて第1党となる(院内会派名は弥生倶楽部)。

同年末の帝国議会開会を前にして、党の最高権威である常議員会の選出と、党則の作成が行われたが、この時、一部の府県では、選出する常議員を巡って旧党派間で争いが起き、本部の裁定を要した県も出る始末であった。更に、党則作成をはじめとする常議員会の運営においても、常議員が壮士を警護や会合の傍聴席に動員しており、会合は壮士の野次や壮士同士の衝突などが頻発、議員は会合参加時のみならず、出歩く際にも襲撃の危険にさらされ、独自に壮士を雇って護衛役としていた。9月から11月にかけて常議員数十人が脱党、国民自由党を組織した(衆議院議員としては5議席)[6]

更に、常議員選ばれたのが自由民権運動時代からの各党派の幹部が少なくなかったのに対し、衆議院議員は現職の府県会議員が運動家によってスカウトされて立候補、当選したケースが多く、党運営のみならず、議会対応においても、現職の議員(議員団)よりも非議員の常議員会(院外団)の方がイニシアチブを取りやすく、議員団は常議員会による討議を議会において実施する、という権力構造が想定されていた[注釈 1]。これは特に、常議員会の多数を占め、初期の自由党の運営をリードした大井派(関東派)において顕著で、議員団の中では関東派は少数勢力で、領袖の大井自身も非議員であった。同年11月29日に召集された第1回帝国議会においては、第1次山縣内閣が提出した予算案に対して、「民力休養・政費節減」を掲げて激しく対立、衆議院予算委員会(大江卓委員長)は、政府案を大幅に削減した査定案を作成した。また、この予算組み替えが、憲法67条の規定に照らし合わせて、政府の事前承認を得る必要があるか、という点が問題になったが、翌明治24年(1891年)2月1日、議員総会において、同意は両院通過後で構わない、という強硬な意見が通った[8]

議員団側も巻き返しを図り、1月19日に開かれた臨時党大会において、院外団の権限をさらに強化する党則の改正決議は保留し、代議士の常議員会への出席の権利、臨時評議会の廃止などが、大井派の反対を押しのけて成立した。一方の政府側も、上述の67条の議会予算査定権の制限、議会解散をほのめかす強硬な態度をとり、議員団の側も、初の議会でいきなり国政の決裂(衆議院解散)を招くのは気がひけ、徐々に院外団の圧力からの脱却を模索し始める。その矢先の2月20日、衆議院本会議において、温和派大成会天野若円議員)が提案した、事前同意を必要とする旨の緊急決議に対して、土佐派の議員26名が造反して賛成、動議は可決された。これらの議員は24日に、院外団の専横への憤懣を書き連ねた「脱党理由書」を残して自由党を離脱、自由倶楽部を結成するが、残された議員も彼らの憤懣には同意するところがあり同情的で、追及は鈍かった[9]

3月7日に議会が閉会すると、院外団の圧力でガタガタになった党勢を立て直すべく、組織改革が行われる。欧州留学から帰国した星亨が大井ら反対派を抑え、3月19日、党大会において、専制的な権限を持つ「総理」を設け、板垣がこれに就任した。更に、これに続く幹事(定数3)を総理による任命制とし、常議員会は「参務会」と改称するとともに、議決機関ではなく諮問機関とした。この時、党名を「自由党」に改名する。更に同年10月15日の党大会では、大会の成員を代議士と若干の院外党員で成立するように変更し、参務会は廃止されるなど、完全に代議士を中心とした党体制に移行した。上述の自由倶楽部も、板垣の党総理就任と前後して、復党する。一方の大井は、星との闘争に敗れて脱党(1892年6月28日)、東洋自由党を結成するも、かつて差配した関東派は星の側について動かず、大井の政治力はほぼそのまま星に引き継がれる形となった。以降、自由党内は大きく4つの派閥に分かれた(慣例上、初期の地盤の地域名で呼称されることが多いが、実際の所属代議士の選挙区等できれいに別れるわけではない)。

関東派…領袖:星亨

東北派…領袖:河野広中

土佐派…領袖:林有造

九州派…領袖:松田正久

明治25年(1892年)2月15日、第2回衆議院議員総選挙では、引き続き比較第一党を維持する。この選挙では、内務省品川弥二郎内務大臣)による大規模な選挙干渉が行われており、直後の第3回帝国議会(5月6日召集)では政府と民党が鋭く対決するが、一方で党の上層部は藩閥との妥協を模索しており、自由党では河野広中院内総理が、末松謙澄伊藤博文筆頭元老の娘婿)を窓口として密談を重ねた。しかし、第1次松方内閣の側では、内務省(選挙干渉を主導した白根専一次官ら)や温和派が民党との連携に猛反対、松方正義首相の統制が効かなくなり、交渉は進展しなかった[10]

松方内閣はほどなく崩壊し、8月8日、第2次伊藤内閣が発足。11月29日、第4回帝国議会召集。自由党は再び対決モードに戻り、翌年度予算案審議においては軍艦建造費を全額削除するなど予算の1割削減を査定する。内閣はこれに対して、明治天皇による、いわゆる「和衷協同詔勅」渙発により事態を打開する。

明治26年(1893年)夏、衆議院議長に就任していた星亨の、相馬事件への関与を巡って世論の非難の声が高まり、自由党内では星の処置について対応を迫られたが、星が率いる関東派を、河野以下東北派が攻撃、土佐派が前者、九州派が後者の肩を持ち、真っ二つに分かれることとなった。板垣党総理が星を擁護したこともあり、11月29日の議会における議長不信任決議案は、党議では「反対」で臨んだものの、他党の賛成多数で可決。


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