自由パプア運動
自由パプア運動の旗
活動目的西パプアの独立
関連勢力バヌアツ
ソロモン諸島
トンガ
敵対勢力インドネシア
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自由パプア運動(インドネシア語: Organisasi Papua Merdeka, (OPM))は、1965年以来西パプア地域で独立運動を行っている組織である[1]。 組織は大別して三つのユニットに分けられ、指導者に従って土地支配をするパプア評議会
概要
当初より政治的対話を志向しており、明けの明星旗の掲揚式を行ったり、パプア紛争での軍事行動も経験している。支持者は明星旗を始めとして国歌の我が地パプアやオランダ領ニューギニアの紋章を定期的に掲揚、歌唱している。軍事行動については1998年以来不可侵協定がインドネシアと締結されているが、インドネシア軍はこれを無視[2]、自由パプア運動の行動を非合法とみなしており、独立煽動をする叛逆組織と批難をしている[3]。司令官は9人、兵力は約6万人と推定されているが、その武器は弓矢である事も多く、近代装備には乏しい[2]。
その一方でインドネシアの特殊部隊は彼らの掃討作戦を実行し、この対テロ部隊をオーストラリアが支援していた事が独立派から問題視されているが、オーストラリアは亡命した独立運動家にビザを出した事もある[4]。
歴史
前史パプア州センタニにある自由パプア運動の落書き
第二次世界大戦中、オランダ領東インドは日本軍の蘭印作戦で、東インドのほとんどが短期間で日本軍の占領下におかれた。軍政当局はオランダ植民地政庁によって拘束されていた、スカルノらインドネシア独立運動家たちを解放し、インドネシア・ナショナリズムの高揚を図った[5]。日本軍はこれらによってインドネシアの民衆を慰撫し、また動員を容易にする考えだった[6]が、独立運動家の側もそれと承知で軍政当局へ協力しつつ、インドネシア独立のために彼らを利用した[7]。日本の敗戦後、1945年8月17日にインドネシア共和国は独立を宣言した。同じ時期、パプアではオランダ領ニューギニア(現在の西パプア)とオーストラリア海外領土パプア(現在のパプア島南東部)、オーストラリア委任統治領ニューギニア(同北東部)がアメリカ合衆国と連合して、日本軍の侵攻を防いでいた。
日本の敗戦後に起きたインドネシア独立戦争の解決を図る1949年末のハーグ円卓会議において、オランダはインドネシア連邦共和国の独立を認め、西パプアについては現状を維持(つまりオランダが統治)し、連邦共和国とオランダの二国間協議を1年後に開くことで合意した[8]。しかし翌年にオランダは前言を翻し、パプア人はインドネシアの国民と民族的に異なるため、民族自決主義に従ってパプア人自身が選択を行うまでオランダが西パプアを統治すると主張しはじめた[9][10]。
1952年、オランダ議会は西パプアを自国領土に編入すると決議する。以後オランダは西パプアに関する主権問題の議論を拒み、交渉を打ち切った[11]。オランダのこうした姿勢はインドネシア側の態度をさらに硬化させ、インドネシアにおいて西パプア問題は優先課題となった[12]。
戦争前のオランダとオランダ領ニューギニアの関係は戦後、パプアの官公庁が設立され取って代わられたが[13]、それはインドネシアが1963年にイリアンジャヤを統治するまでの事だった。オーストラリアとオランダの間には1957年に、この地は独立が好ましいとの合意をしていたが、オーストラリア管轄地の開発不足とアメリカ合衆国の意向によって東西は統合されなかった。
1961年1月にオランダ領ニューギニアは選挙を行い、ニューギニア議会が1961年4月に設立された。しかしワシントンD.C.ではインドネシアに中央情報局のパイロットであるアレン・ローレンス・ポープの解放を望んでおり[14]、国際連合から西パプアを信託統治領にする提案もあった[15]。