自由ケベック万歳!(フランス語: Vive le Quebec libre! 発音: [viv? l?keb?k ?lib??])は、モントリオール万国博覧会のためにカナダのケベック州モントリオールを訪問したフランス大統領のシャルル・ド・ゴールが、1967年7月24日にモントリオール市庁舎のバルコニーにおいて行った演説の中で繰り返した絶叫である。カナダ首相のレスター・B・ピアソンもこの演説に反論して「カナダ人は解放される必要など無い! 」と強い憤りを表明し、両国間の緊張を引き起こした。ド・ゴールの演説は半世紀以上経過した今日のフランスとカナダの関係にも暗い影を落とし続けている。
映像外部リンク
ド・ゴールの「自由ケベック万歳! 」演説動画(フランス語)
フランス大統領シャルル・ド・ゴールが到着する以前からカナダ連邦政府は彼の訪問を不安視していた。1967年3月のカナダ総督ジョルジュ・ヴァニエ(英語版)の葬儀にフランス政府は高いレベルの代表者を送らなかった[1]。ヴァニエ総督と総督の妻ポリーヌ・ヴァニエ(英語版)はド・ゴールとは彼が1940年にイギリスのロンドンに亡命して以来、親しい付き合いをしていたために、注目されることとなった[1]。同年4月にはカナダで開催された第一次世界大戦のヴィミーリッジの戦い(英語版)の戦勝50周年記念式典にド・ゴールは出席しなかった[2]。
カナダ首相レスター・B・ピアソンは外務大臣(英語版)ポール・マーティン(英語版)をフランスとの関係の修復を目的としてパリのド・ゴールの元へ派遣した。モントリオール・ガゼット(英語版)紙はこの演説から45年後に、第二次世界大戦末期の1944年夏にパリに移転したフランス共和国臨時政府の存在を当時のカナダ首相マッケンジー・キングが軽視して承認を渋っていたことにド・ゴールが苛立っていたのではないかと推測している[3]。
モントリオール万国博覧会開催に伴う外交儀礼の一環として、ド・ゴールと、博覧会に展示物が置かれるすべての国の指導者が1967年春から夏までの期間にカナダを訪問するために招待された[4]。
ド・ゴールが搭乗したフランス海軍の防空巡洋艦『コルベール』はケベック州の州都ケベック・シティーを目指し、時間を掛けて航海した[5]。ケベック・シティーでは、集まった群衆がカナダの新総督ローランド・ミッチェナー(英語版)が到着する際に演奏された『ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン(女王陛下万歳)』に対してブーイングを浴びせる一方で、ド・ゴールには熱烈な喝采を浴びせた[6]。ド・ゴールは演説の中で、フランスがケベック州との結び付きを強化していることについて語り、ケベック独立運動への支援を示唆した[7]。
演説ド・ゴールが演説を行ったモントリオール市庁舎のバルコニー
7月15日、ド・ゴールは『コルベール』に搭乗する前に、グザヴィエ・ドニオーに「あちらで彼らは私の話を聞き、波乱が巻き起こるであろう」と語った[8]。また、義理の息子アラン・ド・ボワシューに「私は強力な一撃を与えようと考えている。興奮する事態になるであろう。だが、必要なことである。臆病なフランスを正す最後のチャンスである」と打ち明けた[8]。7月24日にモントリオールに到着し、モントリオール市庁舎の主ジャン・ドラポー(英語版)市長と同伴したダニエル・ジョンソン州首相が彼を迎え入れた。ド・ゴールはドラポーに「私は必要としている人達のために演説をしなければならない」と述べた。群衆はド・ゴールの名を繰り返し叫んだが、彼はその日の夕方に演説することが予定されていなかった。デイル・C・トムソン(英語版)は複数のフランス高官と個人的に面談し、発見した文書から出した結論として、ド・ゴールは予め演説に備えて文章を用意しておき、機会が与えられた時にその文章を元に演説をしたと述べている[8]。
ド・ゴールはモントリオール市庁舎のバルコニーに顔を出して大勢の群衆に向けて演説した。演説の中で、ナチス・ドイツの支配からパリが解放された(パリの解放)後に、凱旋した時と似たような雰囲気を感じていると語った。