自由の記念碑
Br?v?bas piemineklis
リガ記念碑庁
R?gas Pieminek?u a?ent?ra
ラトビア独立戦争
自由の記念碑(じゆうのきねんひ) (ラトビア語: Br?v?bas piemineklis) は、ラトビアのリガにあるモニュメントで、ラトビア独立戦争(1918-1920)で殺された兵士に捧げられている。ラトビアの自由、独立、主権のシンボルとして大切にされており[1]、リガで行われる公開集会や公式式典などでは中心場所になることが多い。
完成は1935年11月18日、高さ42メートル、石灰岩、石灰華、銅で作られている。記念碑の周囲の彫刻やレリーフは、13のグループに分かれており、それぞれラトビアの文化や歴史を表している。記念碑の中心部分は上へ行くに従って細くなる四角柱型で、その上の銅像『自由の女神』の手には、金色の星が3つ掲げられている。(英語版の写真を参照のこと)カーリス・ザール(ラトビア語版)
記念碑の建設構想が生まれたのは1920年代初期で、ラトビアの首相ジクフリーツ・メイエロヴィッツが「記念柱」のデザインコンペに関する法律を制定した。幾度かのコンペを経て最終的に1930年代の初め、記念碑はラトビアの彫刻家カーリス・ザールの案『星のごとく輝け(ラトビア語: Mirdzi k? zvaigzne! ) 』に従って建設された。建設費用は個人献金によって賄われた。
1940年のソビエトによるラトビア侵攻以降、ラトビアはソビエト連邦に併合され、自由の記念碑は解体が検討されたが、実行に移されることはなかった。リガ生まれでカーリス・ザールの教え子だったソビエトの彫刻家ヴェラ・ムーヒナが、記念碑の芸術的価値を惜しんで破壊回避に尽力したのだという説がある。ソビエトのプロパガンダは、記念碑の象徴性を共産主義的イデオロギーに合致するよう歪めようとしたが、一般市民にとっては変わらず国家独立の象徴であり続けた。1987年の6月14日には、約5,000人の人々が記念碑に集まり、ソビエト体制の犠牲者を悼んで花を捧げている。この集会をきっかけに国家独立運動が再燃、3年後にはラトビアの主権回復を宣言、ソビエト体制も崩壊した。
デザインラトビア語版の数字をクリックすると各部の写真が見られる。
自由の記念碑を飾る彫刻やレリーフには13のグループがあり、それぞれがラトビアの文化や歴史を表している[2]。記念碑の中心部分は四角柱で、上へ行くに従って細くなる。
記念碑の土台付近で、赤い花崗岩の階段(10段、高低差18メートル、奥行3メートル)が、2つの石灰華のレリーフ(高さ1.7メートル、幅4.5メートル)『ラトビアライフル大隊』(13、ラトビア語: Latvju str?lnieki) と『ラトビアの人々?歌』(14、ラトビア語: Latvju tauta - dzied?t?ja)との間を結んでいる[1]。さらに2つの階段が直径28メートルの円い舞台を形づくり、そこに記念碑全体が建っている。記念碑の前部分では舞台は長方形を形づくり、この場所が式典行事などに使われている。
記念碑の土台部分もまた、赤い花崗岩で造られている。土台の下部分は高さ3.5メートル、幅9.2メートル、奥行11メートルに統一されている。土台の上部は一回り小さく、高さ3.5メートル、幅8.5メートル、奥行き10メートルで、隅に丸いニッチが作られ、3つの人物像からなる彫刻群が据えられている。その側面もまた石灰華で装飾されている[3]。記念碑の正面、『労働』と『祖国防衛』のレリーフの間に、ラトビアの作家カーリス・スカルベによる献辞「祖国と自由のために」(6; ラトビア語: T?vzemei un Br?v?bai)が石灰華のパネルに刻まれている[1]。『労働』(10、ラトビア語: Darbs)は漁師、職人、農民を表している。中央に立つ農民が手にする大鎌は、オークの葉やどんぐりで飾られ、力と雄々しさを象徴している。『祖国防衛』(9、ラトビア語: T?vzemes sargi)では、中央に古代ラトビアの戦士が立ち、現代の兵士が両脇にひざまずいている。側面の石灰華には2つのレリーフが掲げられている。1つは『1905年』(7、ラトビア語: 1905.gads)でロシア第一革命の影響を表しており、もう1つが『鉄橋上におけるベルモンティアンとの戦い』(8、ラトビア語: C??a pret bermontie?iem uz Dzelzs tiltaで、ラトビア独立戦争中のリガでの決戦を表している。 記念碑の後ろ側には、2人の子供の間に立つ母の像の『家族』(12、ラトビア語: ?imene)と、『学問』(11、ラトビア語: Gara darbinieki)がある[1]。
赤い花崗岩の土台の上に、高さ6メートル、幅6メートル、奥行7.5メートルの長方形の石灰華のブロックが置かれ、5.5-6メートルの高さの灰色の花崗岩の4つの彫刻群に囲まれている。『ラトビア』(2、ラトビア語: Latvija)、ラトビアの民族叙事詩に歌われた英雄『ラーチュプレーシス』(3、ラトビア語: L??pl?sis)、ペイガニズムのバルト人僧『ヴァイデロティス』(5、ラトビア語: Vaidelotis)、男性3人が自分たちを縛る鎖を断ち切ろうとする『解放者』(4、ラトビア語: Va?u r?v?ji)である[3]。
一番上のブロックはまた、高さ19メートルの石灰華1枚岩の柱(底部2.5メートル×3メートル)の土台ともなっている。柱の前面と背面には、ガラスの中心線が走っている[3]。柱の上には『自由の女神』の銅像(1)が置かれている。女神像は高さ9メートル、3つの金色の星を掲げ、ラトビアを構成するヴィドゼメ、ラトガレ、クルゼメを象徴している[4]。記念碑全体は当初、鉄筋コンクリートの骨組みの周囲に鉛や銅の線、石灰モルタルを流し込んで建造された[3]。しかし元の建材の一部は、修復の際ポリウレタンの詰めものに置き換えられた[5]。モニュメントの内側には部屋が作られ、背後のドアから出入りできるようになっている。中には階段があり、電気設備や下水道の入口へとつながっている。ドアは自由に出入りすることはできず、現在はもっぱら管理目的に使用されている。しかし部屋を改装して小規模な展示を行い、ラトビアを訪れた外国要人が献花式典を終えた後に、記念碑の歴史を紹介できるようにすることが提唱されている[6]。自由の記念碑広場 記念碑が位置するのはリガの中心地Br?v?bas bulv?ris (「自由大通り」の意)、旧市街の近くである[4]。1990年には記念碑周辺の区画、ライニス
場所
公園の南側、記念碑寄りの位置には国立オペラ劇場が位置し、その前には花壇と滝が造られている[9]。オペラ劇場の反対側、旧市街に近い広場西寄りには、小さなカフェやライマ時計がある。時計は1924年に設置され、1936年ラトビアの菓子メーカー「ライマ」の広告塔を兼ねるようになったため、ライマ時計と呼ばれるようになった。ライマ時計はよく待ち合わせ場所として使われる[10]。
初めの計画では、記念碑周辺に作られる広場は楕円形で、周囲には高さ1.6メートルの花崗岩の壁を巡らせ、内側にはベンチを、外側にはクロベ杉の垣根を設置する予定だった。しかしこのプロジェクトは、1930年代には実施されなかった。