自然界
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「自然」の語義については、ウィクショナリーの「自然」の項目をご覧ください。

「天然」はこの項目へ転送されています。人間性格については「天然ボケ」をご覧ください。

「大自然」はこの項目へ転送されています。吉本興業東京本部所属のお笑いコンビについては「大自然 (お笑いコンビ)」をご覧ください。

自然(しぜん、: φ?σι? : natura : nature)について解説する。
自然の観方の歴史

自然の観方、位置づけのしかた、意味の見出し方などのことを自然観と言う。

例えば「自然は人間文化と対峙するという見方」「自然のなかに文化的模範を見つけるべきとする見方」「自然と人造物が一体となるのが文化的景観とする見方」等々が自然観である[要出典]。「自然観」も参照
古代ギリシア:ピュシスとノモス

古代ギリシアでは「φ?σι? ピュシス(自然)」は世界の根源とされ、絶対的な存在として把握された。

対立概念にノモス(法や社会制度)があり、ノモスはピュシスのような絶対的な存在ではなく、相対的な存在であり、人為的なものであるがゆえ、変更可能であると考えられた。フェリクス・ハイニマン(ドイツ語版)は、古代ギリシア人の思考方法の特徴のひとつにこのような対立的な思考(アンチテーゼ)がある、とし、このピュシス/ノモスの対立を根本的なものとした[1]。またこの対立はパルメニデスドクサ(臆見)とアレーテイア(真理)の対立の変形としてエレア派が行ったともいわれる[2]

古代ギリシア語における「φ?σι? ピュシス」の意味は「生じる」「成長する」といった意味をもっていた[3]。またソフォクレスエウリピデスの語法では「誕生」「素性」あるいは「天性」という意味がある[4]。エウリピデスの語法には「たとい奴隷の子であれ、ピュシスに関して勇敢で正しいものの方が、むなしい評判(ドクサスマ)だけのものより高貴な生まれのものだ」(『縛られたメラニッペ』断片495,41)などがある[5]

このような古代ギリシアにおける自然・文化社会との分割が、のちのローマやヨーロッパの思想史のなかでの議論の基盤のひとつとなった。

紀元前4世紀、アリストテレスは、自著『形而上学』において、神学形而上学を「第一哲学」と位置づけ、自然哲学を「第二哲学」と呼んだ。というのは、自然哲学が、対象としている形相の説明も行っているからであるという[6]。ここにおける「philosophia physiceフィロソフィア・ピュシス」という表現が、古代ギリシャ語文献の中に「自然哲学」という表現が現れた最初のものであるという[6]。「自然哲学」も参照
中世ヨーロッパ

スコラ哲学の時代においては一般に、「は二つの書物をお書きになった」、「神は、聖書という書物と、自然という書物をお書きになった」と考えられていた[7]

聖書を読むことでの意図を知ることができるとされていた。また、ちょうど時計というものをじっくり観察すればその時計を作った時計職人の意図を推し量ることも可能なことがあるように、「神がお書きになったもうひとつの書物である自然」を読むことも神の意図や目論見を知る上で大切だ、と考えられた[7]

神はそれぞれの書物を異なった言語でお書きになったと、考えられており、神は人間が話す言葉で聖書を書き、数的な言葉で自然を書いた、と考えられた[7]ガリレオ・ガリレイも次のように述べた。「神は数学の言葉で自然という書物を書いた」(『イル・サジアトーレ(イタリア語版、英語版)』[注 1]1623年) [7]

英語で法則のことを「law」と言うが、これはlay(置く、整える)の過去分詞と謂れている[7]。それは神によって置かれたもの、整えられたこと、という意味である。独語ではさらにわかりやすく、「Gesetz」と言い、「setzenされたもの(英語で言えば、setされたもの)」と表現する。つまり、神によってセットされたものが法則、と見なされているのである[7]

リベラルアーツの7科は、3科と4科に区分されているが、3科は具体的には文法・修辞学・弁証法であり、上記の「二つの書物」のうち「人間の言葉で書かれたほうの書物」(=聖書)をよりよく理解するためのものと位置づけられ、4科の算術・幾何・天文・音楽については、現代人が理解するには少しばかり解説が必要だが、当時は天文も音楽も数学的なものであったのであり、つまり、4科は「数の言葉で書かれたほうの書物」(=自然)をよりよく理解するためのもの、という位置づけであった[8]
近代ヨーロッパジャン=ジャック・ルソー

ヨーロッパ諸語では、自然は本性(ほんせい)と同じ単語を用い「その存在に固有の性質」をあらわす(例えば、英語・フランス語の「nature」がそれである)[注 2][注 3]

「自然に還れ」は、ジャン=ジャック・ルソーの思想の一部を端的に表した表現である。人間社会の人為的・作為的な因習から脱出し、より自然な状態へと還ることを称揚している。
東アジア山水画に描かれた自然「五行」を参照

日本語では自然という語は平安時代にさかのぼる。平安末期の辞書である『名義抄』に「自然ヲノヅカラ」とあるのがもっとも古いようである。より古くは、中国のいわゆる老荘思想では無為自然という語があるが、老子などには無為はあっても自然はない。いずれにせよ、この語は意図せずに、意識的でなく、と言うような意味である。ただし、老荘思想では無為自然を重視し、それに対立するものとして人為的なものを否定する。そこから現在の意味の「自然」を尊いものと見る観点が生まれたと考えられる。彼らは往々にして山間や森林に隠れ住み、また山や川を愛でた。いわゆる水墨画山水画などもこの流れにある。

人の手の触れない地形や環境を指す言葉としての自然は、開国後に「nature」等の外国語を訳する際にできた言葉だと思われ、そのような使われ方は明治中期以降のことである[9]。日本語としては天然(てんねん)がほぼ同義であるが、使われ方はやや異なる。現在では単に天然と言えば天然ボケを指すこともある。なお、自然(じねん)と読んだ場合、むしろあり得ないものが勝手に生まれるのを指す。
自然(じねん)

「じねん」は自然の呉音読みであり、「しぜん」と読んだときとは違った意味を持つようになる。

自然(じねん)とは、万物が現在あるがままに存在しているものであり、因果によって生じたのではないとする無因論のこと。仏教因果論を否定し、仏教から見た外道の思想のひとつである[10]

また外からの影響なしに本来的に持っている性質から一定の状態が生じること(自然法爾)という意味や、「偶然」「たまたま」といった意味も持つ。

浄土真宗本願寺派光明寺僧侶の松本紹圭によれば、昔の日本において自然は「じねん」と読まれており、親鸞は自然を「おのずからしからしむ」と読んで世界を今あるようにあらしめる阿弥陀如来の働きを見いだしたと述べている[11]。また、現代語の「自然」のように、人間を除いた自然界、山や川、動植物を指す言葉はもともと日本語には存在せず、人間と自然界の間に隔たりを見ることなく、ただ自然(じねん)にあるものがあるようにしてあるだけという、仏教から見た外道の精神風土が日本にはあると述べている[11]
自然界噴火中のガルングン火山への落雷(1982年)オーストラリアの Hopetoun Fallsフィンランドラップランドの冬の風景「自然環境」も参照


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